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■2018年美術展ベスト10

□ プラド美術館展-ベラスケスと絵画の栄光-   国立西洋美術館 □ 至上の印象派展、ビュールレ・コレクション   国立新美術館   □ 原点を、永遠に。   東京都写真美術館 □ 建築の日本展:その遺伝子のもたらすもの   森美術館 □ 内藤正敏、異界出現   東京都写真美術館 □ ルーベンス展ーバロックの誕生ー   国立西洋美術館 □ 民藝Another Kind of Art展   ディレクター:深澤直人,21_21DESIGN SIGHT □ さわひらきー潜像の語り手ー   神奈川芸術劇場 □ シュウ・ジャウェイ(許家維)   森美術館 □ 吉村芳生ー超絶技巧を超えてー   東京ステーションギャラリー *並びは開催日順。 選出範囲は当ブログに書かれた作品。 映画は除く。 *「 2017年美術展ベスト10 」

■ロマンティック・ロシアーまた、お会いできますね。-

■Bunkamura.ザミュージアム,2018.11.23-2019.1.27 ■「また、お会いできましたね。 ・・でもどこの美術展だったかな?」。 彼女に申し訳ないので早速調べる。 ・・2009年4月のこの会場「忘れえぬロシア展」だった! 10年の歳月が流れているのに当時と変わらぬ姿で再び会えるとは?、まさにロマンティック・ロシアだ。 ロシアはモスクワとペテルブルクの夏しか知らない。 例えばイワン・シーシキン「正午、モスクワ郊外」やアレクセイ・ボゴリューボフ「・・スモーリヌイ修道院の眺望」の入道雲はいやに水分が少ない。 日本の夏と比較してしまう。 ワシリー・バクシェーエフ「樹氷」も湿度が低いようにみえる。 これは温度が低すぎるからかな? イワン・アイヴァゾフスキー「海岸、別れ」の色は違う自然感だ。 彼のイタリア留学から地中海の気温湿度を感じたのだとおもう。 イリヤ・レーピンは肖像画2点でどちらも気に入る。  ところでレフ・カーメネフ「サヴィノ・ストロジェフスキー修道院」は気に入った1枚だがタルコフスキー監督「惑星ソラリス」の撮影現場と聞いてナルホド。 ついでにアレクセイ・ステパーノフ「鶴が飛んでいく」の題名からカラトーゾフ監督「鶴は翔んでいく」を思い出してしまった。 飛んでいく鶴を子供たちが見つめるだけのツマラナイ作品だが。 ともかく「祖国ロシアの深い思いと愛」が前面に出ていた展示内容だった。 しかし旅行や映画や小説を総動員してみたが絵が語り掛けてくれない。 師走にみる絵は気が散ってしまうからだろう。 *国立トレチャコフ美術館所蔵 *Bunkamura30周年記念 *館サイト、 http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/18_russia/

■アジアにめざめたら、アートが変わる世界が変わる1960-1990年代

■東京国立近代美術館,2018.10.10-12.24 ■戦後アジアアートの流れを「体制批判」から始め「消費社会への対応」そして「芸術家の連帯」の3章でまとめている。 戦後アジア美術は西洋美術批判と政治批判で幕を開けたのね。 1章「構造を問う」 1960年代、西洋美術への疑問から日常を見直すことを始めた。 それには芸術と生活の境界を無くす、見慣れた物を素材に使う、メディアを活用する、この3点よ。 それを使って体制権力に立ち向かう。 相手は李承晩、朴正煕、全斗煥、胡耀邦、李鵬、マルコス、スハルト、スカルノ、タノーム・キッティカ、ネルー、インディラ・ガンディー、・・。 次々と代わる権力者の総出演がアジアアートの特徴にみえる。 2章「アーティストと都市」 1970年以降、体制批判から消費社会の歪に芸術は向かわざるを得なくなる。 資本主義批判や美術館批判へ、・・都市の中へ。 芸術家たちは1980年初めにはソビエト社会主義体制の崩壊を予知していたはず。 消費社会の光と闇のチカラを彼らの触覚で感じ取っていたから。 3章「新たな連帯」 1980年以降、芸術家集団の誕生とジェンダーへの展開と連帯が広がる。 例えばシンガポール木版画運動、タイ統一美術家戦線、フィリピン連帯カイサハン、韓国光州自由美術人協議会、台湾グリーン・チーム、印度サヘマット、中国85ニューウェーブ、東村、フィリピン女性芸術家集団カシブラン、・・。 そして活動と連帯を消費社会から次の情報社会に対応しなおすことが直近の課題かな。 アジアの芸術家っていつも忙しい。 *館サイト、 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/asia/

■吉村芳生ー超絶技巧を超えてー

■東京ステーションギャラリー,2018.11.23-2019.1.20 ■これは!?・・、と作品をジーとみつめ、とキャプションを読んでいくうちに作成過程に費やした作者の身体や時間の重みがズズッと突き刺さって来ました。 ・・! デジタル的アナログ写実と呼んでもよい。 「機械文明が人間から奪ってしまった感覚を再び自らの手に取り戻す!」。 これは人間を超えたロボット、いやロボットを超えた人間になることです。 宗教的修行に似た過程にもみえる。 そして3階から2階会場に入って再びの驚きです。 そこには芥子の赤い花が咲き乱れている。 3階の「ありふれた風景」と同じようにジーと見つめていると「永遠に繰り返す命」の世界が現れてくる。 写実からリアルへジャンプしているからでしょう。 吉村圭芳生のリアルは脳味噌で変換したリアルにも驚くことです。 「百花繚乱」室から「自画像の森」に入ると描いた新聞に自画像を重ねた鉛筆画がズラッと並んでいる。 「新聞と顔は毎日嫌がうえでも目に入る」。 新聞=自画像ですね。 よーくみると新聞記事の内容で自画像が変化していることに気が付く。 新聞を読んでいる吉村芳生をみているようです。 驚嘆と共に「生きることの意味を問いただす」作者が重なりました。 *館サイト、 http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201811_yoshimura.html

■ムンク展ー共鳴する魂の叫びー

■東京都美術館,2018.10.27-2019.1.20 ■会場の混みようは想定外だ。 中高生らしき団体も来ている。 ムンクが何故人気なのか? 家族・愛・死をあからさまに描くからだろう。 中高生にも直観で分かる。 「私の芸術は自己告白である」。 ムンクは自撮りの元祖らしい。 セルフポートをこんなにも見たのは初めてである。 彼の端正な顔立ちと自信に溢れている2章の「自画像」(1882年)をみれば納得。 しかも後半7章の「赤い背景の自画像」(1906年)が1882年と全く変わっていないのに驚く。 精神は益々盛んだ。 版画を始めたのは生計を助ける為だったらしい。 プレス機も所有している。 彼は愛をとるか絵画をとるか?で揉めたようだがカネ回りは作品に影響を与えているのがみえる。 今回はムンクの新しいことを沢山得ることができた。 写真や映画への接近、版画と生計、そしてニーチェへの共感などなど。 以前のムンク展は精神の病が前面にでていたが今回はそれを感じさせない。 ミュージアムショップをみてもわかる。 湖池屋の「ムーチョの叫び」やムンク美術館の「叫びのジャム」、「ポケモンの叫び」や「叫ぶ空気人形」等々をみると、「叫び」(1910年?)が聞こえたという受け身から社会に向かって叫んでいる姿に代わってしまっている。 自画像と同じように自信に満ちた不安な叫びとして・・。 *館サイト、 https://www.tobikan.jp/exhibition/2018_munch.html  

■現代日本演劇のダイナミズム  ■演劇評論家扇田昭彦の仕事

■早稲田大学演劇博物館,2018.9.29-2019.1.20 □現代日本演劇のダイナミズム ■場内は蜘蛛の巣のように細い紐が張り巡らされている。 「・・現代日本演劇の90年代以降を中心に広がりと繋がりを提示する」!。 巣は広がりと繋がりを表しているのですね? 裾野は状況劇場や天井桟敷の60年代から始まっているようです。 展示は簡素ですが全体を11に分類している。 それは「史実」「ノンフィクション/フィクション」「セックス&ジェンダー」「コミュニティアート」「静かな演劇」「「語る力」「音楽成分多め」「「モノローグ/モノローグ」「2.5次元」「演出力」「弱いい派」。 分類ごとに該当する演出家や劇団の紹介と写真そしてビデオが上映されています。 11に演劇を分けたのは重要ですね。 登場する劇団(演出家)を数えると83劇団。 知っている劇団はナゼその分類に入っているのか凡そ分かる。 でも「モノローグ/モノローグ」「弱いい派」は知らない劇団が多い。 全体だと24劇団もある。 因みに知らない劇団や演出家は・・、 いいへんじ(中島梓織)、犬飼勝哉、ウンゲツィーファ(本橋龍)、OiBokkeShi(菅原直樹)、小田尚稔の演劇(小田尚稔)、カゲヤマ気象台、岸井大輔、Q(市原佐都子)、グループ・野原(蜂巣もも)、ゲッコーパレード(黒田瑞仁)、コトリ会議(山本正典)、The end of company ジエン社(山本健介)、the pillow talk(むつみあき)、新聞家(村社祐太朗)、スペースノットブランク(小野彩加、中澤陽)、贅沢貧乏(山田由梨)、青年団リンク キュイ(綾門優季)、関田育子、東葛スポーツ(金山寿甲)、ヌトミック(額田大志)、藤原ちから、村川拓也、モメラス(松村翔子)、ゆうめい(池田亮)です。 新しい世代でしょうか? 多くは「静かな演劇」から派生したらしい。 平田オリザや岡田利規などの影響が強いのでしょう。 でもモノローグが新しいとは考えられない。 弱いというのはまだよく分からない。 「・・この先は未知の演劇に繋がっている」とあったが蜘蛛の巣の絡み合いがよく見えなかった。 未知の道は見つけ難い時代に感じました。  *早稲田大学演劇博物館開館90周年記念・2018年度秋季企画展 *館サイト、 https://www.waseda.jp/enpak

■会田誠とChim↑Pomのカラス  ■シュウ・ジャウェイ(許家維)  ■クロニクル京都1990s  ■カタストロフと美術のちから展

■森美術館,-2019.1.20 □会田誠とChim↑Pomのカラス ■Chim↑Pomのカラスは傑作だとおもう。 都会の空を覆う鴉の群舞と鳴声は異様としか言いようがない。 眺めていると動物としての不安が甦るからよ。 会田誠の不気味な鴉を並べると相乗効果は抜群! カタストロフ展では福島原発事故現場を背景に日の丸を描いて掲げるのかと見ていたら、丸に3枚の扇を追加して放射能標識付日の丸にしてしまう。 原発事故の衝撃力を国旗で表現するとはお見事! *館サイト、 https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamcollection008/index.html □シュウ.ジャウェイ(許家維) ■台湾出身の映像作家シュウ・ジャウェイの作品5本を上映。 最初の「・・故人たちの証言」が面白かったので5本全てを観てしまったわ。 日本統治時代の油脂工場跡地を映し出しながら当時の関係者が証言していく。 そして能「高砂」が高砂国や高砂族に通ずるという。 また日本が台湾に地質学者を派遣し鉱山発掘をおこなった話が「核崩壊タイマー」。 鉱物ジルコンを探すが失敗に終わる。 どれも大戦頃の実話に台湾の自然が融合して興味ある内容になっていた。 他に「回莫村」「諜報局の廃墟」は米ソ冷戦時代のタイ国諜報員の話で驚きが一杯ね。 許家維を知ることができたのが今日の成果よ。 上映時間は10分以内が多いので助かったけど、カタストロフ展は数十分の作品があるから大変。 長編は最初の数分で見る見ないを判断する必要がある。 映像作品の展示方法は検討余地あり。  *館サイト、 https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamscreen009/index.html □クロニクル京都1990s-ダイアモンズ.アー.フォーエバー,アートスケープ,そして私は誰かと踊る- ■中身が一杯詰まった贈り物のような会場だわ。 2011年の展示会「 ダムタイプS/Nと90年代京都 」をより詳細に落とし込んだ内容にみえる。 京都の美術系大学を中心に美術・音楽・ダンスなど90年代を記録と映像で紹介。 高校文化祭のように文章が細かく映像が多くてつまみ食いするしかない。 「カタストロフと美術のちから展」を皮切りに館内を歩き回って既に

■建築X写真、ここのみに在る光  ■小さいながらもたしかなこと  ■マイケル・ケンナ写真展

■東京都写真美術館,-2019.1.27 □建築X写真 ■特定の場所や建物を撮った作家20名の展示です。 1800年代は歴史を意識するが1900年代は作品内に生きている共通点を探してしまいますね。 2章になるとより絞り込んでいきます。 渡辺義雄は「伊勢神宮」、石元泰博の「桂離宮」、村井修は「丹下健三建築」などなど作家の得意場所を選んでいる。 その中で奈良原一高「軍艦島」、宮本隆司「九龍城砦」は住民がまだ生活しているので見応えがあります。 九龍城内一角にある入歯を作って売っている店ですか? 映画「ブレードランナー」で人工眼を売っている店屋とそっくりで迫力満点です。 建築写真は住んでいる人々を、それは気配だけでも入れるかどうかで違ってきます。  *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3108.html □小さないながらもたしかなこと ■作家:森栄喜,ミヤギフトシ,細倉真弓,石野郁和,河合智子 ■1980年前後に生まれた若手作家5人の作品展です。 現代の生き難さを作家のそれぞれの日常から見つけ出して作品にしている。 まさにタイトルの通りです。 カメラが生活=身体の一部になった最初の世代なのでしょう。 少しばかり余所行き姿ですが通勤通学、買物や食事とそんなに遠いとは感じません。 気に入ったのは写真でできた絵画のような石野郁和の作品群です。 観ていると自身の脳味噌が輝きだすのが分かります。 *日本新進作家vol.15 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3098.html □マイケル.ケンナ写真展,A 45 Year Odyssey 1973-2018 ■マイケル・ケンナは興味が湧きそうで湧かない作家の一人です。 作品の半分はオモシロイようでツマラナイ。 プロにしては打率が低すぎる。 ただし撮影場所は真似ができない。 もちろん作品に費やす時間もです。 凝り過ぎていると言うより考え過ぎている可能性があります。 しかし発見もありました。 それは日本人女性のヌード集「RAFU」です。 彼は日本女性の肌理をしっかり感じていることがわかりました。 流石です。 *館サイト、 https://topmuseum.jp/con

■リー・キッド「僕らはもっと繊細だった。」

■原美術館,2018.9.16-12.24 ■ここの美術館は窓が多い。 それを利用している。 カーテンで光量光質を調整して部屋の触覚を映像と共に表現しようとしているようだ。 このため壁まで新たに作った箇所もある。 そこに木陰や顔写真、動く足など単純な映像を映し出す。 しかし多くの部屋はせわしない。 せっかく作った空間の雰囲気は雑音として散ってしまっていた。 窓の無い部屋は身体から遠ざかるので集中できるが。 日本の四季は室内に多くの記憶を残してくれる。 しかしリー・キッドが求めた部屋の感触がよく分からない。 彼は台湾で生まれたという。 豊かな自然で子供時代を過ごしたはずだ。 彼の作品は多分、蒸し暑い夏の夕暮れに観るのが似合うのかもしれない。 今は季節がよくない。 空気が軽すぎるからだ。 *館サイト、 http://www.haramuseum.or.jp/jp/hara/exhibition/243/

■アール・デコと異境への眼差しーエキゾティックXモダンー

■東京都庭園美術館,2018.10.16-2019.1.14 ■得意のアール・デコで今年を締め括るつもりのようね。 しかも本命ポール・ポワレを並べるとは御機嫌ね。 でも聞かない名前も多い。 菅原清造とジャン・デュナン、ウジェニー・オキン・・。 資産家ナンシー・キュナードや自動車会社シトロエンの行動も。 これら総括としての1925年パリ万博(通称アール・デコ博)、1931年パリ国際植民地博覧会は当時の植民地政策に沿っている。 強烈な何者かを持っていたアフリカ・アジアに近づくため芸術家はこの政策に乗らざるを得なかったの? A・ブルトンたちは博覧会に反対したようだけど・・。 そして「フランス・アール・デコのイメージ・ソース」にこの異境を「エキゾチシズム」として受け取ったのは大戦に挟まれた束の間の休息が作り出した現実逃避の気分と合致したのかもよ。 ところで「30年代美術館」が多く目に付いたけど行ったことがない。 館名だけを見ると意味深で面白そう。 *館サイト、 https://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/181006-190114_exotic.html

■さわひらきー潜像の語り手ー

■感想は、「 さわひらきー潜像の語り手ー 」

■民藝 Another Kind of Art展

■ディレクター:深澤直人 ■2121デザインサイト,2018.11.2-2019.2.24 ■ディレクターは日本民藝館館長でもある深澤直人。 配布資料には民藝館初代館長柳宗悦の案内文が載っているの。 一息では読めない3千文字はある。 「民藝(=民衆的工藝)は生活に即した実用品を指すが、・・それらこそ驚くべき美を持っている。 ・・美と生活は深い血縁で結ばれている」。 日々使う器物の美が生活を潤すのね。 机に5個前後の作品を並べて会場に20机ほど散らした構成になっている。 「今 ミヨ イツ 見ルモ」。 いつも「今初めて見る想いで見ること」で美しいものが見えるようになる。 そして「打テヤ モロ手ヲ」。 両手を打って美を喜べば生活は輝く、たとえ一枚の布一個の壺でも。 柳宗悦の二つの言葉を実践した深澤直人の文章が全ての机に書いてある。 生活の中で使うことを想像しながらみていくと喜びがやってくる。 うん、工芸の力ね。 映像は2点。 一つは日本各地の竹細工・染料・陶器など工芸品作成現場と関係者のインタビュー。 もう一つはマーティ・グロス「日用品をつくる1889-1961」の記録映像。 両方観れば作品がずっと近くなる。 「明日への生活」を民藝が豊かにすることは確かよ。 *美術館、 http://www.2121designsight.jp/program/mingei/

■東山魁夷展、生涯をたどる美しき道

■新国立美術館,2018.10.24-12.3 ■東山魁夷をまとめてみるのは久しぶりだ。 初めての作品もある。 彼の絵は独特な静かさがある。 夢を見ているのようにも思える。 これだけの作品を並べると装飾性ある構図はまだしも写実に近づくほど清涼感を越えた冷々な湿気が押し寄せてくる。 唐招提寺壁画「涛声」がそうだ。 「黄山暁雲」「桂林月宵」も見応えがあるが「充実した無の世界」とはまた違った世界にみえる。 それは人間のいない自然がすぐ近くに迫っているような寥々たる世界だ。 「揚州薫風」も不気味一歩手前のところで踏みとどまっている。 作者はこの湿気から逃げられない。 1940年代、例えば「残照」にはまだ自然の生気が感じられたのだが・・。 生気があるのはそこに人間が確かにいるからである。 南へ旅をして暖かい湿気を作品にしたらまた違っただろう。 *生誕110年展 *館サイト、 http://www.nact.jp/exhibition_special/2018/kaii2018/

■深井隆展、7つの物語  ■深井隆展、在ることについて  ■刻まれた時間もの語る存在

■東京芸術大学大学美術館,2018.11.1-11 ■高島屋日本橋店,2018.10.31-11.19 ■東京芸術大学大学美術館,2018.11.1-11 (以上展示名順) ■深井隆芸大退任記念3展です。 木彫の可能性を追求してきた作品群が多く3階の「7つの物語」は見事です。 粗削りが残っている椅子に金色の翼、エジプシャンブルーに塗られた馬など一つの作品が複数からできていて空間に散らばっています。 小さな作品では大理石の金箔窓の家、動物のブロンズ像などなど・・。 翼をみるとキリスト教の天使を思い浮かべてしまいますね。 でも天使像のいない翼のため人間味が感じられない。 形而上学的にみえる。 静寂な空間にどことなく意味が漂います。 「在ることについて」が高島屋で開催されていることを知り日本橋へ向かいました。 ここでは小さな作品が並べられていて値札もついている。 1作品20万円代が多い。 販売状況をみるとモノタイプが比率的に売れていますね。 木彫だと購入に尻込みするのでしょう。 大理石作品でも土台が結構大きい。 モノタイプなら絵画のように扱えて設置や保管が容易だからです。 再び芸大美術館の話に戻ります。 「刻まれた時間もの語る存在」は芸大彫刻科の学生や出身作家の作品です。 ビデオ作品から物理学実験設備のような作品まである。 今流行りの言葉で言うと百花繚乱ですね。 「彫刻とは、木や石に永遠を刻もうとする行為・・」と深井は言っています。 現代彫刻は素材から湧き出てくる永遠と表面を流れる物語の永遠のせめぎあいにみえます。 ■芸大コレクション展2018 ■東京芸術大学大学美術館,2018.10.2-11 ■ついでに寄りました。 知っている作品が多い。 会場入口の久保克彦「図案対象」(1942年)の5枚組が目立ちます。 柴田是真「千種之間天井綴織下図」の修復報告が会場を占めています。 *館サイト、 https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2018/fukai/fukai_ja.htm * InternetMuseumサイト、 https://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=92213

■カール・ラーション、スウェーデンの暮らしを芸術に変えた画家

■損保ジャパン日本興亜美術館,2018.9.22-12.24 ■カールの作品はどれも薄い感じがする。 水彩画というわけではないが家族関係の濃密さは見えない。 日常生活がどういうものか伝わってこない。 例えば夕食のテーブルはまるでレストランのようだ。 室内も衣装も一昔前のデパートの広告である。 実際イケヤの居間もあった。 「産業革命による住職分離は私的な領域としての家庭を生み出した・・」。 そしてジョン・ラスキンの言う「美・秩序・安らぎを与える家庭」の流れを無条件に踏襲し形にしている。 カールにとって挿絵の仕事はこの流れから逃げる無意識の手段だったのかもしれない。 挿絵には狭い目的と広い世界がある。 その後、家族の肖像を版画で描いたのは彼が挿絵で冷静になったからだろう。 「エッチングは私的主題を表すのに適している」。 線は文字のように確かな記録にもなる。 妻カーリン・ラーションの存在が大きい。 カールとカーリンの初期油彩画「水差しのある静物」と「マルムストローム先生のアトリエ」はどこか似ている。 若い二人は芸術で意気投合したはずだ。 カーリンの腕前は確かだ。 しかしカールはそれを嫌った。 そして彼女は民芸に向かう。 「産業革命は粗悪な工業製品を作り出した」。 これに対抗するための美術工芸運動に彼女は出会った? リッラ・ヒュットネースの邸宅は彼女の時代嗜好が詰まっている。 家は彼女の両親から譲り受けたらしい。 カールへの影響はどれも大きい。 彼の描く家庭は民芸になってしまった。 民芸は家族関係に深入りできないが生活の遊びによく似合う。 カールの絵の楽しさは民芸を昇華したような遊ぶ子供達にある。   *日本・スウェーデン外交関係樹立150周年記念 *館サイト、 https://www.sjnk-museum.org/program/5469.html

■田根剛、未来の記憶 Digging&Building  ■異国で描く  ■中村太一

■東京オペラシティアートギャラリー,2018.10.19-12.24 □田根剛,未来の記憶 Digging&Building ■ギャラリー間では「考古学的リサーチの方法論を展開」したけど*1、ここでは「(時間と場所の)記憶を発掘し・掘り下げ・飛躍させる手法を体感的に展示する」と書いてある。 これで模型が大きくなり見応えのある映像が並べられているのね。 先ずは「エストニア国立博物館」の映像が流れていたが吹雪の中の壁面のガラスをみると寒そう! 規模があるけど暖房は効いているかしら? 「古墳スタジアム」は本物の長閑さがある。 スタジアム機能以外はそれで良いかもね。 気に入ったのは「A House for Oiso」と「Todoroki House in Valley」の住宅2点かな。 前者は「・・縄文の竪穴、弥生の高床、中世の掘立小屋、近世の町屋、昭和の邸宅を一つの家にして・・」とギャラリー間には書いてあったけど完成映像をみるとナルホド! 後者の等々力は緑の中の邸宅で1階はガラス、2階は木材(?)の違った組み合わせが新鮮よ。 住宅など小さな作品は組み合わせとしての考古学的アプローチが調和を保っている。 大規模作品はあらゆる記憶が一点に集約されてしまうように見える。 実物をみないと何とも言えないけどね。 会場終わりに全作品が年表形式で表示されているの。 なかでも金森穣演出の「 干渉する次元 」など5作品の舞台美術を担当したのは見過ごしていた。 美術展では「 ポンピドゥー・センター傑作展 」「 フランク・ゲーリー展 」「 新井淳一の布 」など多くの会場構成にも係わっている。 これらは建築と違い脇役として一歩下がっているの。 一見では田根剛と分からないけど言われてみると(建築の)延長としての納得感が持てる。 *1、「 田根剛,未来の記憶 Search&Research 」(ギャラリー間,2018年) *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh214/ □異国で描くー収蔵品展,寺田コレクションよりー ■「竜宮」(1996年)にまた出会えて嬉しいわ。 これを含めて西野陽一の作品が7点もある。 鶴を描いた「コンチェルト」(2017年)を除いて他は「竜宮」の延長線に位置している。 この館でよくみる相笠昌義では「緑

■田根剛、未来の記憶 Search&Research

■TOTOギャラリー・間,2018.10.18-12.23 ■作品22点の手作り模型や材料・部品が3階に展示されている。 壁には関連写真が一杯。 ギャラリーが狭いから庭も使っていて密度の濃い内容にみえる。 4階は作品映像のみ。  田根剛は「エストニア国立博物館」と「新国立競技場古墳スタジアム」しか知らないの。 飛行場がせり上がる写真は宇宙時代を感じるわね。 緑に包まれた山のようなスタジアムも言うことなし。 この2作品だけでも未来と過去の時間差がとても大きい。 彼の建築に対する考え方が分かった。 「・・考古学のように遠い時間を遡り、場所の記憶を掘り起こすことから始める」。 土器の破片や古いレンガ等々が多く展示されている理由がみえてきた。 「記憶は過去のものではなく、未来を生み出す原動力へと変貌・・」。 どの作品をみても時間と場所の記憶が染みている。 50文字前後の一息で説明しているキャプションも面白い。 4階の映像は挨拶程度の内容ね。 遠い時間と場所を考えている建築は多々あるけど、その完成品をみると結局は今の時間と場所を修飾しているだけ。 でも田根剛の作品はそれが深層まで届いている感じがする。 記憶から過去=未来にまで作り上げることが出来るか?にかかっているようね。 オペラシティ・アートギャラリーでも同企画展が開催されているらしい。 両館の関係がよく分からないわね。 ということで初台へGO!! *館サイト、 https://jp.toto.com/gallerma/ex181018/index.htm

■全員巨匠!フィリップス・コレクション展

■三菱一号館美術館,2018.10.17-2019.2.11 ■2005年の「フィリップス・コレクション展」も素晴らしかったことを覚えています*1。 何故ダンカン・フィリップスは納得のいく作品を蒐集できたのでしょうか? 今回はこの疑問に近づけそうな展示会です。 というのも章ごとに彼の蒐集へのアプローチが書かれていたからです。 しかも作家作品についての感想も並べられている。 彼の考えや好みがわかります。 フィリップスは言っている。 「芸術は・・、楽しい時は肯定する気持ちに、苦しい時は逃避する気持ちに、・・解き放してくれる」と。 具体的効用を求めています。 先ずはドーミエを集めたのは財を成した祖父(の時代と生き方)に近づく為ではないでしょうか? 彼の祖父ジェームズ・ラフリンとドーミエは生年が2歳しか違いません。 「新聞」(ヴュイヤール)では「住んでいた住居に似ている」。 日常世界への親しみやすさとして親密ですね。 ボナールも同じだと思います。 蒐集時期が遅いセザンヌとカンディンスキーは現実世界との関係が見出せなかったからでしょう。 「セザンヌは孤高の中で挑戦する眼差しを持っている」。 なんとセザンヌの目つきを論じているのが面白い。 ピカソよりもブラックを好んだのも分かります。 ブラックは元々室内装飾ですしピカソは五月蠅過ぎる。 でもピカソ6点中の3点が会場最後にまとまって展示されていたのは嬉しいですね。 フィリップスに少し近づけました。 彼は欲しい絵を求めるため資金繰りで持絵も手放した。 芸術に対しても現実的な人とみました。 ところで会場は照明が暗かった。 この狭い部屋を明るくしていたのは「画家のアトリエ」(ラルフ・デュフィ)と「サン=ミシェル河岸のアトリエ」(アンリ・マティス)のアトリエ2室でしょう。 またボナールの4点は開催中の「 ボナール展 」の特別ボーナスですね。 ミュージアムショップでは気に入ったセザンヌの「ザクロと洋梨のあるショウガ壺」絵ハガキを1枚購入しました。 今ハガキを眺めながらこのブログを書いています。 *1、森アーツセンターギャラリー、 https://macg.roppongihills.com/jp/exhibitions/2005/ *「 モダン.アート-アメリカン,珠玉のフィリップス.コレクション- 」(国立新美術館,201

■ルーベンス展ーバロックの誕生ー

■国立西洋美術館,2018.10.16-2019.1.20 ■「イタリアとのかかわりに焦点を当てる」と書いてあったけど、具体的にはギリシャ・ローマ時代の彫刻を指すみたい。 「古代彫刻は石のように描いてはいけない」。 これがルーベンスが描く豊穣な肉体の原点だったのね。 また一つ彼の謎が解けた。 しかもイタリア時代の作品は空気が澄んでいて清々しい感じがする。 空気が人物の輪郭を浮き出させている。 うーん、最高! でも工房を設立してからは出来不出来の差が激しい。 例えば聖人の死を描く場合に顔は灰色だけど体はまだ血の気がある。 たぶん顔だけをルーベンスが描き体は工房画家なの。 死の事実かもしれないけど絵としては調和が崩れている感じにみえる。 工房以外の画家と共同制作していたのも驚きね。 これがルーベンスの恐るべきところかもしれない。 現代社会なら彼は芸術監督、ブロデューサー、コンサルタントのようだわ。 後半はこれに外交官も熟しているのがすごい。 有能な画家であり外交官は彼しかしらない。 レオナルドもミケランジェロもアルチンボルドも外交官としては劣るからよ。 2月に開催した「 プラド美術館展 」でベラスケスとルーベンスの関係が語られたけど今年の西洋美術館はバロックの年と言ってもいいわね。 *館サイト、 http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2018rubens.html *「このブログを検索」語句は、 ルーベンス

■フェルメール展

■上野の森美術館,2018.10.5-2019.2.3 ■入口で配られた豆本のような解説書はいいですね。 1頁1作品で字が大きく、暗く混んでいる会場でもダイレクトで読むことができる。 音声ガイドも無料で配布していたが、豆本が良くできていたので使いませんでした。 場内はフェルメールの部屋まで関連作品が続きます。 「肖像画」「神話・宗教画」「風景画」「生物画」「風俗画」そしてやっと「フェルメール」が登場! しかし最後にドカッとまとめて観るのも疲れます。 感動が薄れる。 しかもフェルメール9作品と定型的な章の組み立て方が交じり合っていかない。 もったいない展示順序だと思います。 「マルタとマリアの家のキリスト」は初めて観た気がします。 でもフェルメールらしさが未だ発酵していない。 やはり一番は「牛乳を注ぐ女」ですか。 牛乳、パン・・全てが光で微振動していますね。 灰色っぽい作品の前ではハンマースホイを急に思い出してしまった。 フェルメール以外では「捕鯨をするオランダ船」(A・ストルク)が楽しい。 鯨だけではなく北極熊に槍を向けたり、泳いでいる海象も描かれています。 細かいためジックリ隅々まで見てしまった。 「港町近くの武装商船と船舶」(C・V・ウィーリンヘン)の海の色はブリューゲルの「バベルノ塔」の海と同じです。 「野兎と狩りの獲物」(J・ウェーニクス)の兎の毛並みはホカホカで気持ちよかった。 そして「海上のニシン船」(S・D・フリーヘル)の大気は素晴らしい。 他に数点気に入った作品がありました。 フェルメールの故郷デルフトであるハーグには行ったことがない。 ということでアムステルダム国立美術館を訪れた時のことや、アムスの街並み運河風景を思い出しながら会場を後にしました。 *館サイト、 http://www.ueno-mori.org/exhibitions/article.cgi?id=857636

■京都・醍醐寺ー真言密教の宇宙ー

■サントリー美術館,2018.9.19-11.11 ■老翁が飲んだ水を「醍醐味」と表現したのが寺名の由来だと初めて知った。 今回は展示約80点全てが醍醐寺所蔵しかも多くが国宝・重文というのが素晴らしい。 会場に入ると先ずは「如意輪観世音坐像」が出迎えてくれるのも嬉しい。 思っていたより小さな像だ。 次の「聖宝坐像」も寺の開祖ということで順当。 そして空海の開題や曼荼羅が続き副題通りの宇宙を形成していく。 快慶の「不動妙坐像」を見た後の「五大明王像」は少し漫画チックな感じがする。 スカッとしたロボットのような足が仏像に見えない。 日記、書状など古文書も多く展示されている。 これをみると寺院内外での派閥争いも多かったようだ。 時代の権力者から支援を得られ続けた理由はよく分からない。 権力者が好む未来を読む企画・提案力が高かったのだろう。 松涛美術館「 醍醐寺展 」(2014年)は「過去現在絵因果経」を中心にして展開したが、今回はエピローグを「醍醐の花見」にしてより華麗な寺に仕上がっていた。 *館サイト、 https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2018_4/index.html

■ピエール・ボナール展

■国立新美術館,2018.9.26-12.17 ■ボナールの絵には生活の余裕が見えます。 他の画家とは違います。 と言うのも先日ゴーギャンの映画*1を観てしまったからです。 そして若い時はヴュイヤールと影響しあっていたのですね? 会場では彼の名前が目に付く。 それ以上に両者の作品は似ています。 2章「ナビ派時代のグラフィック・アート」で、彼が版画でデビューしたことを忘れていた。 3章「スナップ・ショット」で、コダックのカメラに興味を持っていたのも初めて知りました。 ボナールを知っているようで知らない。 さすが大回顧展だけあり全体像がみえてきます。 いやー、楽しいですね。 4章「近代の水の精たち」の肌色と包み込む青、5章「室内と静物」の黄金色の日常、6章「ノルマンディー風景」の溢れる緑色・・。 なんとも言えない色々、何とも言えない空間・・。 彼はシャルダンに心酔していたようです。 シャルダン*2の<時間の静止>をそのまま空間に星屑のように散らかしたのがのがボナールでしょう。 どちらも静止が「親密さ」となって表れ人生の豊かさが何であるかを感じさせてくれます。 やはり他画家とは違う余裕がみえます。 *1、「 ゴーギャン-タヒチ,楽園への旅- 」(2017年作品) *2、「 シャルダン展-静寂の巨匠- 」(2012年,三菱一号館美術館) *オルセー美術館特別企画展 *館サイト、 http://www.nact.jp/exhibition_special/2018/bonnard2018/

■日本橋高島屋新館

■設計:日本設計,外装:SOM(スキッドモア.オーウィングズ.アンド.メリル),施工:鹿島建設 ■新館開業2018.9.25 ■9月25日にオープンした高島屋S.C.新館を見学。 中央通りからみると重要文化財の本館との調和が見事ね。 外装デザインは東京ミッドタウンを手掛けたSOMとのこと。 7階までが新館で以上32階まではオフィスらしい。 これで4つの建物から構成される日本橋高島屋の全体像がみえたと言っても良いかしら? 新館フロアは思っていたより狭い感じがする。 軽さを感じさせる専門店で統一しているの。 日常(すむ)と仕事(はたらく)に直結したコンセプトらしい。 本館との間のガレリアは有機的に統合されていない。 馴染むのには少し時間が必要ね。 屋上のグリーンテラスは2019年春オープンで工事中。 日本橋界隈は「日本橋」を挟んで途切れてしまっている。 三越(三越前駅)から高島屋(日本橋駅)までの間は歩く楽しさがない。 同じように銀座と京橋もね。 三井不動産は三越より北の室町周辺に力を入れているし・・。 「日本橋」の両岸が繋がるのはやって来るかしら? *高島屋サイト、 https://www.takashimaya.co.jp/nihombashi/about.html

■渋谷ストリーム

■設計:東急設計コンサルタント,施工:東急建設,大林組 ■開業:2018.9.13 ■第二弾「渋谷ストリーム」へ行ってきたわよ。 第一弾の「渋谷ヒカリエ」は2012年開業だから既に6年が経過したのね。 ストリームは地上35階だけど高く感じられない。 ビル表面に板を貼ってあるようなデザインが垂直の流れを邪魔しているからだとおもう。 遠くから見ても継ぎ接ぎのようで野暮に見える。 ビルのフロアは1階から3階が店舗、13階迄がホテル、14階からはオフィス、そしてアネックスにホールが入っている構成よ。 食事時だったけど日本1号店のバルセロナ発パエリア店「チリンギート・エスクリバ」周辺がやはり一番混んでいたかな。 オフィスのエントランスを見たかったけど入れなかった。 グーグル日本法人の入居は来年らしい。 ホールもイベント時刻でないと開館しないようだわ。 どちらも見ることが出来なくて残念! それよりストリームの名前の通り渋谷川を取り込んだコンセプトに見応えがある。 ここは首都高が遮り行き難い地区だけど、将来はビルの中心を通り渋谷川沿いに伸びるストリーム・ラインが渋谷駅と繋がるらしい。 渋谷川は昔からのドブ川だけど上手く利用しているとおもう。 川沿いの遊歩道は店舗「渋谷ブリッジ」などを取り込みながら代官山方面へ続いているの。 渋谷が苦手としていた地域をストリーム・ラインで活性化できれば楽しくなるわネ。 *渋谷ストリームサイト、 https://shibuyastream.jp/

■松尾敏男展 ー清心な絵画ー

■そごう美術館,2018.9.8-10.14 ■松尾敏男の作品はよく見ますがまとまった展示は初めてですね。 1章「新しい日本画を志して」2章「内省的な絵画から写生重視へ」3章「現代における日本画の可能性を信じて」の構成です。 4章は・・なかった? 会場出口付近が分かり難かった為です。 初期作品の木々などは平面のように広げて具体と抽象の中間を狙っています。 対象群を大きく分割して力強さがある。 かつ異界に通ずる物語もみえる。 これが新しい日本画であり内省的と言える。 彼はフランス映画や歌舞伎、旅行が好きだったようです。 舞台美術や緞帳も担当している。 人物画は少ないので記憶に残ります。 マルセル・カルネ「夜の波止場」の女優は人間の強さが窺えるし、歌舞伎役者七代目中村芝翫は人柄が表れている。  相撲取りの化粧まわしもあったが花模様は変わっていて面白いですね。 旅行の成果である中国の山々やヨーロッパの都市、日本の四季風景画は大画面で迫力があります。 後半は写生重視に移った。 でも植物画はどこか幽玄的にみえます。 ここが彼の絵の忘れられない一因となっている。 内省が続いているかのようです。 会場のインタビュー映像では生まれ故郷長崎について多くを語っていました。 「長崎夜景」は山々の民家の灯りをホタルのようにたくさん描いて素朴さがある。 でも日本画の可能性については聞き洩らしてしまった。 *2016年8月没後初の回顧展 *館サイト、 https://www.sogo-seibu.jp/common/museum/archives/18/matsuo_toshio/

■ペギー・グッゲンハイム、アートに恋した大富豪

■監督:リサ・インモルディーノ・ヴリーランド,出演:サミュエル・ベケット,ジャン・コクトー,ロバート・デ・ニーロ他 ■イメージフォーラム,2018.9.8-(アメリカ,2015年作品) ■ペギー・グッケンハイムのコレクター人生を撮ったドキュメント映画。 コレクションは美術品とその画家である。 両方を収集したのが異色だとおもう。 その収集は彼女自身の自由と存在感を高めるための手段のようだ。 手段達成への情熱と大胆な直感を彼女は持っていた。 彼女のコレクションは当時ひょっとしたらガラクタになりかねなかった。 デュシャン、エルンスト、ポロック、ピカソ、モンドリアン。 そしてカンディンスキー、ブルトン、カルダー、ジャコメッティ、ブランクーシ、タンギー、ダリ、キリコ・・。 最初はいい加減な作品を購入したが途中からデュシャンの意見に従っている。 彼から慧眼力も学んだ。 もう一つの<収集>であるアーティストつまり男性遍歴も大したものだ。 「作品より恋人のほうが多かった」「女性の自由と権利の”荒れた”見本」と言われたそうだが、アーティストへの支援は惜しまなかった。 「・・一番はポロックを見出したこと」。 彼女はインタヴューで語っている。 モンドリアンの言葉「アメリカで見た中で一番刺激的だ」を聞いて彼女は動いたのだろう。 度胸ある行動に出られるペギーがいなかったら現代美術はガラッと違っていたかもしれない。 リサ監督はベギーのユーモアを見つけて欲しいと言っている。 人生の滑稽矛盾洒脱がペギーの全身からジワッと滲み出ていた。 *作品サイト、 http://peggy.love/

■超えてゆく風景展 ー梅沢和木XTAKU OBATAー

■ワタリウム美術館,2018.9.1-12.2 ■二人展ですが量と質が際立って不均衡です。 展示室2階・3階は梅沢和木の作品が壁一杯です。 大小写真の上に丹念に又は粗雑に細かく絵具で描いてある。 ゴミゴミしていて近寄らないと何が描かれているのかわからない。 作品ごとの境界も定かではない。 風景というより壁でしょう。 なんとそこに小畑多丘のロボットのような木造彫刻が2点、ズトーンと向かい合っているだけ。 両者には緊張感が漂っています。 B-BOYとB-GIRLがこれからダンスを踊ろうとするその一瞬を捉えている。 微妙に振動しているようにみえる背景の梅沢と共鳴していますね。  展示室4階は小畑の写真と映像がともに1点。 「Takuspe buttai Abstoract」は色々な抽象物体が画面を横切る二次元的動きをしている。 面白いようでつまらない。 敢えて3次元を無視しているからでしょう。 2階の続きで4階も彫刻を見たかった。 でも展示室自体の問題もありますね。 3階と4階は中途半端な空間のため作品も中途半端になってしまいそう。 今回の2階は面白い空間が出現していました。 *美術館、 http://www.watarium.co.jp/exhibition/1809hyperlamd/index.html

■ブラジル先住民の椅子 ー野生動物と想像力ー

■東京都庭園美術館,2018.6.30-9.17 ■動物の優しい顔がいいわね。 猿、豹、鹿、獏、鷲、鷹、蝙蝠、魚、亀・・。 コンドル、アルマジロ、アリクイ、ハチドリ、カエル・・。 知らない名前もある。 見ているとホッとする。 蛇や蜘蛛はいないようだわ。 癒し系かな。  記録映像「ブラジル先住民の椅子ーメイナクの人々の生活と椅子作りの紹介」(12分)と「ブラジル先住民が語るメイナク族と椅子」(25分)を最後にみる。 前者映像はメイナク族部落とその生活の一端が映し出され、ジャングルに行き大きな木を斧で倒し椅子を作っていく様子が紹介されているの。 森の木から動物が生まれ出てくる感動が持てたのは嬉しい。 でも今もこのような生活をしているのかしら? 文化遺産としての保存映像かもしれない。 後者は椅子作りの問題点が語られる座談会形式の映像よ。 メイナクの人々は椅子を民芸品ではなく芸術品として扱ってもらいたいらしい。 経済的都合が背景にあるのも分かるわね。 汐留ミュージアムで「河井寛次郎展」が開催されているけど、日本でも作家と職人の関係や機械の使用などの相違からくる民芸運動批判があった。 この映像でも斧かチェーンソーかの話がでていたから意見を統一するのは大変そう。 中庭の池がみえる一室に掲げてあるブラジルと先住民の地図は作品全体を把握するのに最適よ。 その中でメイナク族が住んでいるマトグロッソ州の名前を見た途端レヴィ=ストロースを思い出してしまったの。 うーん、悲しき熱帯! 今回は伝統や宗教性も感じられるけど西欧社会に影響された現代作品ばかり。 副題にもあるように想像力としての表現を楽しむ展示会のようね。 *館サイト、 https://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/180630-0917_benchesofthebrazilian.html *追記。 ブログのデザインを9月初旬に変更したの分かった? 「Blogger」を利用しているけど更新があり古い機能が使えなくなってしまったからよ。 新しいスケルトンを使って再構築したけど微妙なデザインが作れない。 クリック(タップ)操作が増えてしまった。 コードは修正したくないし・・。 これでいくしかないわね。

■マノロ・ブラニク -トカゲに靴を作った少年-

■脚本・監督:マイケル・ロバーツ,出演:マノロ・ブラニク,アナ・ウィンター,リアーナ,パロマ・ピカソ,シャーロット・オリンピア,ジョン・ガリアーノ ■(イギリス,2017年作品) ■「履き心地は悪いが美しい」「とても痛いが気分がいい」「履いたことはないが持っている」・・。 女性の靴の選び方は理解できない。 カナリア諸島でのマノロ・ブラニクの幼少期は素晴らしかったはずだ。 作品中の楽し気な生物や植物をみてもそれが分かる。 そして彼はパリ、ロンドン、ニューヨークと渡り歩いていく。 どこかジェームス・ディーンに似ている。 セクシーな青年だったらしい。 ダイアナ妃が彼の靴を履いてから爆発的に売れ出したと言っている。 アフリカへの接近も一歩誤れば下品にみられるが、そうならないのが彼の凄いところだ。 プラド美術館でゴヤの靴を論じている場面も面白かった。 この映画に登場する有名人はマノロの靴を無条件で称賛する。 アナ・ウィンター、パロマ・ピカソ、イマン、ジョン・ガリアーノ、ソフィア・コッポラはともかく初めて聞く名前が多い。 やはり靴の世界は遠い。 マノロはランペドゥーサの「山猫」の話をしたがる。 「・・マノロが面白いと思っていた時代は過ぎ去ろうとしている」と誰かが言っていた。 「庭仕事が一番」の彼も主人公ドン・ファブリツィオと人生を重ね合わせる時期に来ているのかもしれない。 ただしルキーノ・ヴィスコンティの「山猫」しか私は知らないが。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/87776/

■ちのかたち、藤村龍至展 ー建築的思考のプロトタイプとその応用-

■TOTOギャラリー・間,2018.7.31-9.30 ■会場に入ると机一杯に並べられた同じような建築物の紙模型を目にします。 「・・知識を素早く形にして、形から言葉を作り出し、それを知識にして、・・これを繰り返していく」。 このプロトタイプ技法はコンピュータ世界では以前から活用されていたが、これをモノの世界に適用すると人間五感に直接響くので特に建築には効果があるのかもしれない。 2階会場は紙模型を実現化した建物十数作品が映像で紹介されています。 チラシにもある「すばる保育園」(2018年)と「OM TERRAACE」(20717年)が気に入りました。 保育園は子供の身体に、テラスは大人の身体に、素早く適応、しかもユックリと馴染んでいく感じがします。 建築家藤村龍至は「個々の知識と形態の関係がブラックボックスのままである」と言っている。 建築を具現化するその直前のアヤフヤさをプロトタイプ技法で最小にしたいらしい。 この反復はとても人間的です。 言い換えるとヒトとモノを納得いくまで使うことになる。 これをどのように解決するかも課題でしょう。 会場一角に「深層学習による椅子のかたちを生成する試み」があったがパラドックスを抱えているようにもみえました。 *館サイト、 https://jp.toto.com/gallerma/ex180731/index.htm

■アナ・スイの世界 THE WORLD OF ANNA SUI

■テレビ朝日けやき坂スペース,2018.7.14-8.26 ■アナ・スイの全コレクションを十数テーマに分けて展示されているの。 「ノマド」から始まる作品はアジアの匂いがするけどそれを飛び越えてユーラシアの雰囲気も出ている。 色彩とデザインに独特な落ち着きがあるからよ。 漫画の主人公たちが着る衣装にみえるのもいいわね。 たぶん民族衣装の要素が含まれているからだとおもう。 大陸や民族という抽象を具体にする力を彼女は持っているのね。 この力は島国日本では持ち難い。 *本展はアナ・スイコスメテックス20周年を祝してロンドンの「Fashion and Textile Museum」で2017年5月から10月に開催された「THE WORLD OF ANNA SUI」の世界巡回展。 *アナ・スイサイト、 https://jp.annasui.com/

■杉浦邦恵 ーうつくしい実験ー

■東京都写真美術館,2018.7.24-9.24 ■「孤」は写真技法を駆使していますが1960年代作者の立ち位置が分かる作品群です。 魚眼レンズの効果がいいですね。 しかし写真から離れて絵画に向かう。 再び写真に戻り「フォトカンヴァス」で写真と絵画を結び付けている。 被写体はニューヨークの橋や高架など現実的です。 次第に絵画を離れ「フォトグラム」を基本にした偶然を取り込みより洗練された写真世界を作っていく。 写真か絵画か迷っているようにもみえました。 技術的には高度かもしれないが、でも写真をみる面白さがありません。 芸術に接する喜びがやって来ない。 「うつくしい実験」とあるように作品を作る過程が大事なのでしょう。 ホールの映像作品をみて実験工学なら映像が似合うと直観しました。 将来は映像作家になること間違いなしです。 うつくしい実験=過程を時間軸に反映できます。 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3054.html

■藤田嗣治展

■東京都美術館,2018.7.31-10.8 ■「画業の全貌を展覧する」とチラシに書いてあった。 その通りの内容である。 1章「原風景」の作品から藤田嗣治と父や黒田清輝との関係を初めて知った。 2章「はじまりのパリ」のキュビスムの真似事やユトリロ以上のパリ風景もそうだ。 しかし「空や道の地の比率の大きさが乳白色へ進んだ・・」とは考えられない。 でも「子供は特定のモデルだった・・」には納得。 レオナール・フジタの時代でも子供は1910年代の特徴が感じられる。 3章「1920年代」の「座る女」を筆頭にした数枚は乳白色デビュー直前の絶好調の作品にみえる。 それは上昇志向の強さとでも言ってよい。 一番面白かったのは5章「1930年代・旅する画家」で色々な肌色が比較できたことだろう。 4章「乳白色の裸婦」作品群と「リオの人々」「ラマと四人の人物」の中南米の褐色、「ちんどんや」「魚河岸」などの日本肌、「客人(糸満)」「孫」の沖縄の肌。 どれもが素晴らしい。 1950年になると黄昏が近づく。 7章「戦後の20年」の「ホテル・エドガー・キネ」「姉妹」「室内」・・。 寂しさが漂っている。 これを振り払うかのようにしてカトリックの道へ進む。 彼の画業はここまでだとおもう。 8章「カトリックへの道行き」はもはや宗教活動である。 彼の行く先々には戦争が待ち構えていたという波乱の人生が直に伝わって来る展示会であった。 *藤田嗣治没後50年展 *館サイト、 https://www.tobikan.jp/exhibition/2018_foujita.html *「このブログを検索」語句は、 藤田嗣治

■ゴーギャン ータヒチ、楽園への旅ー

■監督:エドゥアルド・デルック,出演:ヴァンサン・カッセル ■(フランス,2017年作品) ■1891年、ゴーギャンはタヒチへ向かう。 タヒチに着いてからはサバイバルそのものです。 食うための生活が続く。 途中妻になるテフラに出会います。 しかしサバイバルは後半も続く。 漁師、荷役、観光品販売などの労働で食いつないでいく。 ゴーギャンの経済力の無さが惨めです。 しかもタヒチの街はパリと同じになってしまった。 皆が教会へ行きキャバレーもある。  この映画はゴーギャンが出稼ぎ労働でタヒチに行ったときの苦労話のようにみえる。 画家ゴーギャンはいません。 しかし彼は旅慣れているから心の内では楽園だと思っていたのかもしれない。 でないとタヒチでの傑作が説明できない。 ゴーギャンにとって人生は旅であり楽園なのでしょう。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/88041/ *「このブログを検索」語句は、 ゴーギャン

■ミケランジェロと理想の身体

■国立西洋美術館,2018.6.19-9.24 ■「ダヴィデ=アポロ」は通路から7時の方向に入るからそのまま時計回りでズルッ、ズルッとみていくの。 1時頃に横顔がみえてくる。 ん、とてもいい。 その時の左腰と太腿もね。 そして6時正面へ。 ギリシャでもローマでもない。 ルネサンスを越えて現代に通じている。 「若き洗礼者ヨハネ」は通路から5時方向に入るから反時計回りでズルッ、ズルッ、ズルッ。 うーん、衣服が邪魔だわ。 縄文人が着る毛皮みたい。 やっぱミケランジェロはスッピンピンでないとだめね。 でも子供を脱皮した瞬間を捉えている。 それは人生の空白=純真な時間だとおもう。 未来もみえる。 再び「ダヴィデ=アポロ」を時計回りでズルッ、ズルッ・・。 なぜか反時計回りは感動が弱まる。 一周したら又「ヨハネ」を反時計回りでズルッ、ズルッとユックリ歩きながら・・。 これを5回ほど反復する。 ・・。 ミケランジェロォォォォォオ!! *館サイト、 http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2018michelangelo.html *「このブログを検索」語句は、 ミケランジェロ

■ジャコメッティ最後の肖像 Final Portrait

■監督:スタンリー・トゥッチ,ジェフリー・ラッシュ,アーミー・ハマー他 ■(英国,2017年作品) ■ドキュメンタリーだと思っていたら違った。 話は・・、ジャコメッティから肖像のモデルになって欲しいと青年ジェイムズは頼まれる。 しかし制作は進まない・・・。 ジャコメッティがカンバスを前に人物を描いていくだけの単調なストーリーだが飽きさせない。 彼の演技が過剰なのはこの流れの為からだろう。 「描けないのは35年間胡麻化してきたからだ」「睡眠薬を使うのは自殺ではなく眠りだ」。 威勢もいい。 青年ジェイムズは内に秘めた存在感が出ていて面白い。 二人の信頼感もみえる。 芸術家ではセザンヌ、ピカソ、シャガールを話題にするがシーンの繋ぎ程度である。 但しセザンヌを持ち上げピカソを貶すところは彫刻家の面目を保っている。 フレンチ・ポップスが数曲入るが全体のリズムを壊している。 英語系の強い作品だからフランスに忖度したのかな? 終幕はせっせと店仕舞いするような感じでいただけない。 「 アルベルト・ジャコメッティ-本質を見つめる芸術家- 」をドラマ化したような作品だった。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/86691/ *「このブログを検索」語句は、 ジャコメッティ

■レオニー

■監督:松井久子,出演:エミリー・モーティマー,中村獅童,原田美枝子,竹下景子,柏原崇,勅使河原三郎,吉行和子ほか ■(日本+米国,2010年作品) ■先日の「 イサム・ノグチ展 」会場に彼の生い立ちが詳細に載っていた。 興味を持ったので早速このDVDを取り寄せました。 レオニー・ギルモアはイサム・ノグチの母の名前です。 1892年、レオニーのボルティモア学生時代から物語が始まる。 そして彼女はニューヨークでイサムの父になる野口米次郎(ヨネ)と出会い文筆業で成功し結婚。 ヨネは日本に帰り、レオニーは彼女の母の家カルフォルニアでイサムを生む。 1907年レオニーはイサムを連れて日本へ。 しかし二人は離婚。 1918年イサムは一人アメリカへ。 1920年彼女もサンフランシスコへ。 ・・。 松井久子の作品は初めてです。 登場する人物、衣装、街の風景、全てが整然としていて一つの美術作品を観ているようです。 俳優陣も豪華ですね。 20世紀初期の日本の余所行き姿が映し出される。 イサムの芸術面は取り上げられない。 学校に行かず自宅を建てる場面、そして医学から芸術に進路変更する場面で母からの芸術志向の影響を認めるくらいです。 むしろフロンティアであるレオニーを前面に出し当時の一人の女性の生き様を描いている。 しかしこの映画をみて「イサム・ノグチ」がイサム・ノグチになったことは確かです。 ちなみに妹アイリスはダンサーになりマーサ・グラハム舞踏団に入団している。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/55599/ *「このブログを検索」語句は、 イサム・ノグチ

■イサム・ノグチ ー彫刻から身体・庭へー

■東京オペラシティアートギャラリー,2018.7.14-9.24 ■中身の濃い内容でした。 初めの章「身体との対話」の1930年前後のドローイングや彫刻は躍動感があって素晴らしい。 それから20年後の2章「日本との再会」はもはや日本のようで日本でないところが楽しい。 3章「空間の彫刻」で彼がこれだけのプレイグラウンドを考えていたとは「彫刻より空間に興味がある」ことの証です。 マーサ・グラハム「ヘロディアド」(1944年)が映されていたが彼女の物語の抽象化と振幅有る振付はイサム・ノグチの舞台美術に合います。 上演前の舞台をみて何でこんな彫刻が置いてあるのかと訝るのですが、ダンサーが踊り出すとナルホドと納得できるのです。 二人の共同作業が後々迄続いた理由が分かる。 そしてこの展示会を見る限り副題と逆の「身体・庭から彫刻へ」の流れを感じます。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh211/ ■うつろうかたち-寺田コレクションの抽象- ■難波田龍起の作品を中心とした展示です。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh212.php ■木村彩子 ■描かれている草花をみて以前出会ったことがある作品だと・・。 そう、思い出しました。 今年2月の府中美術館「 絵画の現在 」です。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh213.php

■巨匠たちのクレパス画展

■損保ジャパン日本興亜美術館,2018.7.14-9.9 ■クレパスが商品名だったの知ってた? 一般名はオイルパステル。 1925年に日本で作られたの。 徐々に品質改良がなされ現在に至っている。 当時の作品が持つ硬軟感は品質の差かもしれない。 作家115名もの作品を観るのは楽しい。 クレパスだと簡単率直に描けるからよ。 後片付けも楽だし・・。 芸大試験を油絵ではなく日本画で専攻した話が面白い。 理由は油絵は準備や後片付けが大変だから。 当時の日本画試験は水彩画だから楽なのよ。 話がズレたかしら? その画家の名もウッカリ忘れた! それと「神田川」の話もね。 「二十四色のクレパス買って・・」が商品名のためNHK紅白歌合戦に出場できなかったことを初めて知ったの。 クレパス論では小磯良平・宮本三郎・猪熊弦一郎の話が展示に深みを添えていた。 クレパスの開発や普及に務めた山本鼎・中村善策はご苦労さん。 ショップでクレパス製造工場の本も売っていたのは驚きね。 クレパスで描けば誰もが巨匠になれる! あなたも巨匠の仲間入りよ。 *館サイト、 http://www.sjnk-museum.org/program/5380.html

■モネ、それからの100年

■横浜美術館,2018.7.14-9.24 ■日本画に描かれている蓮や羊草からは水生植物としての独特な感覚を貰えます。 でもモネの睡蓮をみていると水に浮かんでいる植物なら何でもよい。 「・・表現したいのは、描くものと自分の間に横たわる<何か>」とモネが言っていることでも分かります。 夕日の描かれた作品が気に入りました。 「セーヌ河の日没」「チャリング・クロス橋」など数点ありましたね。 空間に染み込んでいく夕日の赤は何とも言えない感情が湧きおこる。 <何か>とは感情を呼び起こすもののようです。 モネへのオマージュとして今回は多くの作家作品が展示されています。 この中で水野勝規の映像作品が目に留まりました。 「photon」は水上の波を取り続けているのですが、ずっと見ているとある種の恍惚感が襲ってきます。 船旅で甲板から海上を長く見ているとこうなる。 モネに「税関吏の小屋、荒れた海」があります。 その波はリズミカルですが恍惚感はやってこない。 モネが言う<何か>はリズムとは違うものでしょう。 多分リズムは形だからです。 睡蓮に戻りますが鈴木利策の写真「水鏡」もいいですね。 地と空の融合です。 でもモネの<何か>とは方向が逆です。 モネの絵を観ていると自身の感情が微妙に共振して溶け込んでいくように思える。 作家たちのモネの解釈が多彩で驚きます。 「形なきものへの眼差し」の試行錯誤が楽しい混乱を生み出しています。 *館サイト、 https://yokohama.art.museum/exhibition/index/20180714-499.html

■小瀬村真美:幻画~像の表皮

■原美術館,2018.6.16-9.2 ■暑い中、御殿山を登るのは大変だ。 その延長で作品を前にしたので最初は面食らってしまった。 写真のようだ。 それも暑さとはほど遠い。 じっくりみると動いている・・! 解説を読むと結構手が込んでいるようだ。 絵画と写真と映像を混ぜ合わせたような作品と言ってよい。 「氏の肖像」(2004年)は目が時々動くので集中力がいる。 作品をみる安心感が遠ざかる。 落ち着いて観ることができないのだ。 「Pendulum」(2016年)のように動きのある映像だと安心できる。 でも何が起こるか予想がつかないのでやはり落ち着かない。 作者の予測不可能性、曖昧さとは違う低次元な鑑賞しかできなかった。 ところで先日DPM(ダイナミック・プロジェクション・マッピング)の実験をみたのだが人体と映像が完全一体化しているのを目にして驚いてしまった。 超高速度撮影や超高解像度映像(8K)などを含め映像進化は目覚ましい。 今回の作品は手作業での時空の圧縮化、断片化などをおこない極めて芸術的だが感動がやってこない。 映像的感動とはどういうものなのだろうか? まだ驚くことしか知らない。 映画的感動を得るのにも多くの積み重ねが必要だった。 作者は絵画としてみてくれと言っているように聞こえた。 御殿山を下り大崎駅に出る。 *美術手帖サイト、 https://bijutsutecho.com/exhibitions/1960

■AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展

■デイレクター:中村勇吾,音楽:小山田圭吾,会場:片山正道,参加作者:大西慶景太,折笠良,梅田宏明,勅使川原一雅,UCNV,水尻自子,石川将也,辻川幸一郎 ■21_21DESIGN SIGHT,2018.6.29-10.14 ■小山田圭吾の新曲「AUDIO ARCHITECTURE」を9組の作家が映像表現にする展示よ。 シンプルで特徴の少ない曲に聴こえる。 このためか作者たちの悩んだ跡がみえる。 でも結局はサラッと受け止めたような作品が多い。 暑いし・・。 結果は十人十色ね、九人だけど。 先日、舞台で観た梅田宏明*1の「繊維状にある」はちょっとズレている感じがする。 気に入ったのは辻川幸一郎の「JIDO-RHYTHM」。 曲の雰囲気と顔の歪みの一体化が面白い。 音も映像も波長だからその関係式から逃げるには非連続な経験を持ち込まざるを得ない。 大西景太、梅田宏明、勅使川原一雅、石川将也は逃げずに、折笠良、UCNV,水尻自子、辻川幸一郎は逃げたとおもう。 どちらも方法として有りね。 *1、 「IntensionalParticle」 (梅田宏明振付,2018年) *館サイト、 http://www.2121designsight.jp/program/audio_architecture/

■ショーメ、時空を超える宝飾芸術の世界

■三菱一号館美術館,2018.6.28-9.17 ■創業者ニトの名が登場するが彼は金属職人のようです。 ではショーメとは後続の職人名なのか? 19世紀末の作品にジョゼフ・ショーメの名がある。 20世紀後半の作品にはショーメとしか書かれていない。 近年はデザイナーがころころ変わっているのですね。 ニトを含め初期作品には植物の繊細さが感じられます。 金細工もヒラヒラ感があっていいですね。 素材の厚みを隠している。 しかし権力者向けにみえます。 やはりナポレオンからの歴史があるからでしょう。 持つ人の格式を選ぶのかもしれない。 現在はLVMH傘下らしいがどういう位置づけなのでしょうか? 他店との比較をしたことがないので分かりません。 この美術館は部屋が小さいので今回のような小物展示が似合います。 展示方法や客誘導も混雑をしないように工夫をしていて良かった。 混んでいたのは第一室だけで以降はゆっくりと作品を堪能できました。 単眼鏡は必要でしょう。 *館サイト、 https://mimt.jp/exhibition/#chaumet

■ゴードン・マッタ=クラーク展  ■瀧口修造と彼が見つめた作家たち

■東京国立近代美術館,2018.6.19-9.17 □ゴードン・マッタ=クラーク展  ■ゴードン・マッタ=クラークという名は初めて聞く。 廃墟のビルを鋸で切ってみたり、ゴミ置場でトラックを壊したり、工場跡地の建物の壁を切り取るのを見ると彼はアーティストというよりパフォーマーに近い。 パフォーマンスは結果より過程だから映像作品が多いのだろう。 でも対象変化が予想でき音の無い映像は疲れる。 彼は1960年代饗宴の後始末をしているようだ。 もう一つ、チラシにもあったが戦後から続いた都市の後始末をしているようにもみえる。 でも彼が何を考えているのか、写真や作品の断片を見ただけではよく分からない。 映像では音声がしっかり入っている「フードの一日」が面白い。 マッタ=クラークの日常周辺や街の様子がわかる。 彼らが魚市場へ買い出しに行く場面があったが、スズキや蟹の見立てや店員とのやり取りが楽しい。 レストランに戻っての調理風景には目が釘付けになる。 こんな調理で人前に食事を出せるとは驚きだ。 でも開店後の客の様子をみると皆満足そうに食べている。 トウモロコシが1本ズトーンと皿に置いてあるのには笑ってしまった。 スズキや蟹がよく見えなかったのは残念。 客同士のクダラナイ話もまた楽しい。 人種・服装・髪型・・、1970年頃のニューヨーク下町へちょっと行ってきた感じだ。 マッタ=クラークは当時の街を歩けば出会えそうな人物にみえてきた。 資本資産の交換期のため大きな材料が散らばっていたから活動し易かったに違いない。 当時のマッタリした都市気分も上手く利用している。 不要なモノを扱う面白さとクダラナさの両方がでている。 マッタリ=クラークである。 *館サイト、 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/gmc/ □瀧口修造と彼が見つめた作家たち ■瀧口修造「デカルコマニー」の作品群と彼が支援した若手作家や関連作家の作品が展示されている。 瀧口修造と若手作家のダイナミックな関係は見えないが作家の多さに驚く。 書斎などの写真が面白かった。 本人や妻の表情・服装、家具、壁の絵や棚の本をみていると彼の全体が見えて来る。 *館サイト、 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/takiguchi2018/ *「このフ

■世界報道写真展2018

■東京都写真美術館,2018.6.9-8.5 ■大賞はベネズエラ大統領抗議デモ参加者が炎に包まれている写真です。 防火訓練のようで一瞬戸惑ってしまったがジワッと熱さが迫ってきました。 今年はこのジワッとしてくる作品が多い。 数万数十万単位の死傷者災害が無かったこともある。 環境問題はいつもジワッとですが慣れるのが怖い。 廃棄物処理は世界的に飽和状態に近づいている。 先日「G7プラスチックごみ海洋汚染問題協議」ニュースを見たが、米国と日本だけが具体的対策合意文書に著名をしなかった。 「社会にどの程度影響を与えるのか分からない」と日本政府は言っている。 このレベルの説明しかできない日本は最低でしょう。 そして食肉・酪農品需要が増大している中国、革新的農業技術で世界第二位の食品輸出国になったオランダの比較には興奮します。 政経分野ではロシアのセックスワーカーが300万人に迫っているが経済衰退が原因らしい。 国土も資源もあるロシアで何が問題になっているのか? ミャンマーのロヒンギャ難民がこの数年に何故多くなったのか? 「?」が毎年多くなっていきます。 世界が複雑になり見え難くなっている。 それでも会場は8部門が平均に展示されているので世界を冷静に俯瞰することができる。 「?」を持つだけでも一歩すすめたと考えるしかありません。 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3060.html

■SUKITA、刻まれたアーティストたちの一瞬

■監督:相原裕美,出演:鋤田正義,布袋寅泰,ジム・ジャームッシュ,山本寛斎,永瀬正敏,リリー・フランキー,クリス・トーマス,ポール・スミス,YMO,MIYAVI他 ■新宿武蔵野館,2018.5.19-(2018年作品) ■昨年の「 デヴィッド・ボウイ・イズ 」を思い出しながら観てしまった。 鋤田正義といえばボウイやYMOしか知らないの。 それと寺山修司もね。 この映画はT・レックスのマーク・ボランで始まるけど鋤田の始まりでもある。 グラムロックは写真写りが良いから入り易いかも。 特に「ボウイはスタイリストの言いなりにはならない」から最高。 ポール・スミスの言葉よ。  写真家鋤田正義のスタートは遅れて1970年代からなの。 それは「時代に逆らわず、流れに乗っていく」彼の流儀にある。 いつもユックリと今を走っている感じよ。 「彼にはオフィス感覚がない」と坂本龍一が言っていたけど、それは撮る者と撮られる者の関係が曖昧になることだとおもう。 そこに親密性が立ち現れる。 でも鋤田が相手の芸術をどう思っているのか伝わってこない。 ここで止まってしまう。 親密が作品上では演劇的にみえてしまう。 ポートレイトのことで彼が何度か話していた問題がこれよ。 編笠の母親や老婆の後髪姿の作品のほうが心の奥へ通ずる道が見える。 でも彼の親密性は誰も真似できない。 演劇的リアルの凄さをね。 映画監督では「ミステリー・トレイン」のジム・ジャームッシュや話題のひと是枝裕和も登場したのは嬉しい驚きね。 鋤田を追っていくとアーティストの結びつきからその時代が塊となって現れて来る。 出演者はオジイやオバアが多かったけど、古さと新しさの区別がつかない彼の写真のように過去が現代に混ざり合ってくるドキュメンターリだった。 *映画com、 https://eiga.com/movie/88086/

■東京ミッドタウン日比谷

■建築主:三井不動産,設計:鹿島建設,施工:鹿島建設,オープン:2018.3.29 ■3月にオープンした「東京ミッドタウン日比谷」を見学する。 地下鉄日比谷駅から入ったが地下1階のアーケードが広々として素晴らしい。 直線の通路と円形の天井が余裕の調和で満たされている。 そして1階から3階までのアトリウムの吹き抜けが解放感を漂わせている。 アトリウム周辺は衣料・雑貨で固めその奥に飲食店が並んでいる。 衣料・雑貨に高級店は少ない。 飲食店を特定階に閉じ込めないのも特徴に挙げたい。 4・5階は映画館、6階は交流拠点「ベースQ」と屋上庭園から成り立っている。 特に映画館のロビーが桁外れに広い。 このビルは(7階以上のオフィスを除き)映画館施設として作られているようだ。 近くの日生劇場や宝塚劇場、シアタークリエに来た観客も序でに呼び込みたいらしい。 飲食店はちょっとリッチな客層を狙っている。 それにしても映画館ロビーの広さと比較して4・5階への往復通路が少ないように思える。 オフィス階に考慮したのかな? たぶん映画の客をアトリウム周辺に閉じ込めたいのだろう。 低層階は重厚な外壁で囲み、中からヅヅーンと高層ビルが聳え立っている。 遺産を生かす流行りの形だ。 波を打っているので柔らかみがある。 1階広場に緑が少ないのは日比谷公園が近い為だと思う。 映画客避難場所にもなる。 宝塚劇場地下の「みゆき座(スカラ座?)」は新ビル映画館の続きでスクリーン12・13になっている。 ともかく同じミッドタウンでも六本木と日比谷の違いは明白である。 *「東京ミッドタウン日比谷」サイト、 https://www.hibiya.tokyo-midtown.com/jp/ *建築DBサイト、 http://www.eonet.ne.jp/~building-pc/tokyo-kensetu/tokyo-191hibiya.htm

■ル・コルビュジエとアイリーン、追憶のヴィラ

■監督:メアリーマクガキアン,出演:オーラ・ブラディ,ヴァンサン・ペレーズ,ドミニク・ピノン ■(ベルギー・アイルランド,2015年作品) ■大人びた映画ね。 嫉妬や愛憎がモヤモヤしているからよ。 はっきりさせない。 コルビュジエもカメラに向かって盛んに独白するけど心の内は分からない。 別荘E.1027への彼の落書きは子供っぽさからくる嫉妬かもしれない。 アイリーンもどこかおっとりしているわね。 飛行機好きにはみえない。 彼女は建築を子宮のように考えているの。 フェルナン・レジェとシャルロット・ペリアン*2も登場するけど人物像をハッキリ描かない。 モヤモヤドラマね。 でもコルビュジエと絵画や家具の関係を思い出させてくれたわ*1,2。 *1、 「ル・コルビュジエと20世紀美術」 (西洋美術館,2013年) *2、 「シャルロット・ペリアンと日本」 (目黒美術館,2012年) *アイルランド・日本外交関係樹立60周年記念事業作品 *ル・コルビュジエ生誕130周年記念作品 *作品サイト、 http://www.transformer.co.jp/m/lecorbusier.eileen/

■平田晃久展-Discovering Newー

■TOTOギャラリー・間,2018.5.24-7.15 ■若手建築家の作品はどれも似たようにみえてしまう。 模型の展示方法も同じです。 家と木々の関係などは「 藤井壮介展 」をより進めた感じですね。 映像は「Tree-ness House」と「太田市美術館・図書館」の最新2作品です。 前者は窓や通路に木々を植え生活と一体化を計っていますが狭ッ苦しい。 曲がりくねっていて歩くのにやっとです。 後者は公共施設の為まだ余裕があります。 でも部屋や通路の周囲に使えない余白が目立つ。 図書館の本棚も乱れ置きのため探すのに苦労するでしょう。 しかし躍動感が持てるのは確かです。 身体との一体感です。 彼は建築も生物種に含まれると言っています。 たぶん生物と同じ目線で建築を考えている。 多様関係の重視と生態系への拡張です。 時代の一つの正解にみえる。 しかし二つの映像をみて空間がチープ(=安っぽい)な感じがしました。 この複雑な狭さから逃げたい! 関係重視も良いのですが、関係逃避も有りです。 何もない空間に居たい。 ウサギ小屋住人からの意見でした。 *館サイト、 https://jp.toto.com/gallerma/ex180524/index.htm

■ルーヴル美術館展、肖像芸術-人は人をどう表現してきたか

■国立新美術館,2018.5.30-9.3 ■プロローグのエジプト2作品の対比は面白い。 「棺に由来するマスク」は未来の顔を、「女性の肖像」は過去の顔を求めているの。 2作品の時代差千年が女性を現実的にさせたらしい。 過去の自分の顔は今より美しいからよ。 「神に捧げ」「墓碑に刻み」記憶してもらう顔、「権力や権威」を見せびらかす顔、「表現や流行」を取り込む顔と展示は続く。 みる相手が誰か?肖像史では大事なのね。 肖像画と人物画の違いを意識させないのは肖像の定義が時代と共に変化したのかも。 会場ではオッと声をあげたくなる作品が時々現れる。 アングルや女流画家ルブランの2点、ゴヤなどなど。 「美しきナーニ」はちょっとキツイ感じね。 気に入ったのは「ヘラクレス(エロス)として表された子どもの小像」(ローマ彫刻)2点と「画家の妻と子どもの肖像」(ヴェスティエ)。 後者の子供と犬はビンビンに心が伝わり合っているのがわかる。 エピローグの2枚は昨年の「 アルチンボルド展 」(西洋美術館)には出展されていなかったはず。 今回の為に取っておいたのかしら? それはともかくルーヴルのパワーが会場の至る所で顔を出している展示会だった。 *展示会サイト、 http://www.ntv.co.jp/louvre2018/

■琳派-俵屋宗達から田中一光へ-

■山種美術館,2018.5.12-7.8 ■琳派と言えば俵屋宗達・尾形光琳・酒井抱一そして鈴木其一や神坂雪佳の名が浮かぶが、影響を受けた画家として速水御舟・菱田春草・福田平八郎・加山又造なども展示され、それを田中一光にまで延ばしています。 影響は計り知れないと言うことですね。 館所蔵展なので時々出会う作品が多い。 でもその日の心身状態で気に入る絵が毎回違ってくる。 今回は酒井抱一のちょっと物足りない空間が心地好く感じました。 俵屋宗達「槙楓図」はどこが修復されたのか分かりませんが、ズッシリとした錆びた落ち着きがあります。 いいですね。 田中一光のポスターは近代美術館所蔵で6枚ほど展示されています。 琳派展示会の宣伝ポスターにみえる。 田中は言っています。 「・・(琳派は)危険な世界である。 誘惑を持って迫って来る」。 誰もが誘惑されそうです。 *館サイト、 http://www.yamatane-museum.jp/exh/2018/rimpa.html

■内藤正敏-異界出現-  ■イントゥ・ザ・ピクチャーズ-TOPコレクションたのしむ、まなぶ-

■東京都写真美術館,2018.5.12-7.16 ■内藤正敏-異界出現- ■早川書房SFシリーズ表紙が内藤正敏の作品だと初めて知ったの。 そしてSFから民俗学に興味が移ったのは即身仏との出会らしい。 宇宙人は即身仏だったということね。 「婆バクハツ!」の婆たちの顔に人間世界で生きていく為のどうしようもない女の表情が、「遠野物語」の墓や神棚、写っている物々すべてに霊魂が取り憑いているように見える。 女と霊の近くて遠い関係が面白いわね。 白黒が続いた後の「出羽三山」のカラーは素晴らしい。 仏の唇の赤は衝撃的と言ってもよい。 即身仏の赤い布もね。 内藤正敏の色はヌラッとしているけど歯ごたえが在る。 生き物が浄化したような色にみえる。  *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3052.html ■イントゥ・ザ・ピクチャーズ-TOPコレクションたのしむ,学ぶ- ■キャプションがないと自由になれる。 作品に集中できるからよ。 そして気さくに対話もできる。 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3050.html

■人間・高山辰雄展ー森羅万象への道-  ■それぞれのふたり、小堀四郎と村井正誠  ■追悼-船越直木

■世田谷美術館,2018.4.14-6.17他 ■人間・高山辰雄展-森羅万象への道- ■「小学校先輩福田平八郎の影響もある・・」。 小学生時代から行くべき方向を感じていたのはさすがです。 ゴーギャンの影響も興味がでます。 なるほど「室内」(1952年)を含め数点にそれがみえる。 でも程無く作品からは消えていく。 たぶん画家より人間ゴーギャンへの関心が強かったのでしょう。 1章「若き研鑽の日々(1930年ー45年)」、2章「ゴーギャンとの出会い(45年ー60年)」は試行錯誤の中にも自由の喜び楽しさが感じられます。 でも3章「人間精神の探求(1970年から90年前)」に入ると何か物足りなくなってくる。 探求を始めたら自由が遠くなってしまった? 人物画は余白が多いのですがそれが<空洞>を呼び寄せる。 世界と繋がっていかない孤独を感じるからでしょう。 そのため人物画は一人より二人、人数が多いほど安心感が持てます。 写真でチラッと展示されていた高野山金剛峰寺の屏風図は本物をみたかった。 対して静物画は最初から落ち着いています。 初期の「胡錦鳥のいる静物」(1963年)を含め「牡丹(阿蘭陀壺に)」(1989年)、「椿」(赤と白1992年)などが気に入りました。 *館サイト、 https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/special/detail.php?id=sp00188 ■それぞれのふたり,小堀四郎と村井正誠 ■二人は世田谷にアトリエを構えていたらしい。 でも交流は無かった。 具象と抽象の違いの面白さがあります。 小堀四郎の初期はコローや印象派の影響があり、頬杖を突く存在ある人物像も多い。 次第に宗教を感じさせる山々や空や星を描いていくようになる。 小堀四郎は名前を知っていたが作品は記憶にない。 しかし村井正誠は名前は知らないが絵に見覚えがあります。 村井正誠は赤・青・黄などの崩れた方形に黒い線が印象的です。 *館サイト, https://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/collection/detail.php?id=col00100 ■追悼-船越直木 ■船越という苗字には彫刻家が多いようです。 昨年亡くなった船越直木の作品4点を追悼展示。

■建築の日本展、その遺伝子のもたらすもの

■森美術館,2018.4.25-9.27 ■会場は7セクションから成る。 ジックリみるには最低半日が必要である。 それだけかけてもお釣りがくる内容だ。 会場は木組から入るので遺伝子が何ものか大凡検討がつく。 木材から木・森林・山へ広がり、紙や土へと深まっていく。 それは可逆の流れでもある。 そして住みつく人間生活にジワッと溶け込んでいく。 この遺伝子は掴みどころが無いことも確かだ。 解説文章が素晴らしい。 各セクションの内容を的確に要約し独特な表現にしている。 古典からの引用も目立つ。 文章に惚れたのでカタログを購入しようとしたが作成中らしい。 展示品は有名建築だけに一度は見たことがある。 遺伝子を感じながら別角度から見直すことができた。 例えば柱や屋根から、雨や風からである。 建築展に作品映像は不可欠だ。 対象が立体のため一発で理解できる。 記録映像「駒沢オリンピック体育館建築」の一昔前の職人作業風景が面白かった。 職人の動きを追うことで木や鉄やコンクリートが何者であるかが見えてくる。 出来上がっていく建築に生命が宿っていくのが分かる。 建築家は遺伝子を直接に語らない。 しかし最新作にもそれが組み込まれている。 例えば東京スカイツリーのように遺伝子は「地震」に対して新しい抗体を作り出している。 まるで免疫システムを持っているかのように。 *六本木ヒルズ・森美術館15週年記念展 *館サイト、 http://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/japaninarchitecture/index.html ■MAMコレクション「見えない都市」 ■これは見過す。 *館サイト、 http://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamcollection007/index.html ■MAMスクリーン「近藤聡乃」 ■映像作品は3本、漫画3作品はスライドで。 *館サイト、 http://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamscreen008/index.html ■MAMプロジェクト「アピチァッポン・ウィーラセタクン+久門剛史」 ■新作映画「メモリア」の関連作品らしい。 *館サイト、 http://www.mori.art.mus

■ジョルジュ・ブラック展、絵画から立体への変容-メタモルフォーシス-

■パナソニック汐留ミュージアム,2018.4.28-6.24 ■ピカソより地味なブラックは実はよく知らなかった。 で、メタモルフォーシスと言われてもピンとこないわね。 1章のグワッシュをみてもその方向がみえない。 2章以降に入ってやっと装飾芸術への移行を指していることがわかるの。 それはジュエリーよ。 約30点のブローチ・指輪・ペンダント・ネツクレスが展示してある。 気に入ったのが十数点はある。 アンドレ・マルローが「ブラック芸術の最高峰」と言ったのは略正解ね。 そして陶器や彫刻を含めてブラックが言う立体とはレリーフを指しているのが分かる。 家業である室内装飾の影響かしら? 絵画世界でピカソの毒気にやられてしまったのよ、きっと。 それで装飾へ向かったのだとおもう。 再び少年時代へ。 作品を見た限りこの予想は結構正解かな? ブラックの新一面を知ったり想像したり楽しい展示会だった。 *館サイト、 https://panasonic.co.jp/es/museum/exhibition/18/180428/

■PEEKABOO,五木田智央  ■日常生活、相笠昌義  ■平子雄一

■東京オペラシティアートギャラリー,2018.4.14-6.24 ■PEEKABOO,五木田智央 ■彼の作品から目を離すと、古い写真を見ていたような気がする。 それは白黒写真に古臭い人物像が写っていたような記憶だ。 古さは車のデザインや髪型、背広・スカート・ズボンなどの形や寸法からだと思う。 プロレスラーも職業上なぜか古さを持っている。 そのような写真を見ながら描いたようにもみえる。 人物の顔は普通の顔のように描かれている、一部の人の顔は描かれているが他は塗りこめられている、全員の顔が塗りこめられているの3種類がある。 塗り込められていると目鼻口が判別できない。 一部が塗り込められている作品に味がある。 不思議な比較を読み取れるからだろう。 異様であるが面白さもある。 忘れられない何かを持っている。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh208/ ■日常生活,相笠昌義 ■80点近い相笠昌義をまとめて観るのは初めてである。 やはりクリーム色が基調の人々が広場や公園に佇んでいる1970年代が花盛りだろう。 当時の実存主義の影や表面化してきた孤独感の中に生活の喜びもやんわりと感じられる。 エッチングにも良い作品があることを初めて知った。 「ダンス」(1974年)、「少女三人」(1976年)など十枚前後はある。 その源は1960年代のコラージュに遡ることができる。 しかし1990年代、2000年代と切れ味が鈍くなっていく。 人を多く描き過ぎて空間が死んでしまった。 人の顔も漫画である。 出口近くに「縞布の静物」(1952年)が飾られていたが画家を志す原点が感じられた。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh209.php ■平子雄一 ■植物や食べ物の描き方が賑やかだ。 ある時代の特徴を感じさせる。 ある時代とは上手く言えないがこのような描き方をした同年代画家が多いのは確かである。 そのままキャンバスから飛び出て来たようなミクストメディア作品も見ていて楽しい。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh210.php

■ロダン、カミーユとの永遠のアトリエ

■監督:ジャック・ドアイヨン,出演:ヴァンサン・ランドン,イジア・イジュラン ■(フランス,2017年作成) ■「地獄の門」の制作からこの映画は始まる。 ロダン40歳の頃です。 「像を本物にしたい」彼の真剣度が伝わってきます。 それにしても女性のヌードが美しすぎる。 ここから「裸のバルザック」のような衝撃像がナゼ創り出されるのか差があり過ぎます。 謎は解けない。 木々の接し方や雲の感想から触覚性を重視しているのもわかる。 これに合わせて映画は接吻場面が多い。 でもカミーユとのキスに触覚の喜びが感じられない。 逆にケネス・アンガーのような舐めるような触覚も伝わってこない。 ここから像との差の理由が分かった気がしました。 つまりロダンの触覚の昇華が上手く描かれていないからです。 伝記劇映画の限界ですね。 先日観た「 セザンヌ 」よりマシですが。 それは彫刻の優位性やミケランジェロとの違い等々を考えながら観ることができたからです。 俳優ヴァンサンの内に籠る控えめな発声が良かったからでしょう。 *天才彫刻家ロダン没後100年記念作品 *映画comサイト、 http://eiga.com/movie/86163/

■セザンヌと過ごした時間

■監督:ダニエル・トンプソン,出演:ギョーム・ガリエンヌ,ギョーム・カネ他 ■(フランス,2016年作品) ■画家ポール・セザンヌと小説家エミール・ゾラは中学生時代からのガチ友達だ!! 映画はこれしか語っていない。 でもこれで十分でしょう。 絵画論でも入れば面白くなったはずですが。 ゾラは繰り返し言う。 「セザンヌは天才だ」と。 なぜ天才なのか説明が一切ありません。 「でも開花しなかった」と続く。 展覧会で落選し続けたからでしょう。 悪友の台詞らしい。 やはりですがプロヴァンスはいいところですね。 行ったことはないが映像でもそれがわかる。 土が赤系とは驚きです。 蝉が鳴いていましたね。 蝉の種類と数で気温と湿度が大凡分かる。 乾燥した灰色のサント·ヴィクトワール山の輝きが印象的でした。 *近代絵画の父ポール・セザンヌ没後110周年記念制作 *映画comサイト、 http://eiga.com/movie/86000/

■マーグ画廊と20世紀の画家たち―美術雑誌「デリエール・ル・ミロワール」を中心に-

■国立西洋美術館,2018.2.24-5.27 ■マーグ画廊は時々聞くから上野へ行ったついでに寄ってみたの。 連休だけど常設展は混んでいない。 版画刷師エメ・マーグは妻マルグリットと1945年に画廊を設立、46年雑誌「デリエール・ル・ミロワール」を刊行。 その意味は「鏡の裏」よ。 新美術館で昨年開催した「 ジャコメッティ展 」はマーグ財団美術館のコレクションだった。 覚えてる?  1936年ボナール、43年マティス、45年ブラック、47年ミロ、50年シャガール、カンディンスキは亡くなっていたので妻がマーグと出会っている・・。 雑誌の表紙も画家達が描いているけど大らかさを感じさせる。 版画だから? それにしてもマーグはどんな人だったのかしら? 興味が湧くわね。 摘み食いの常設展といっしょに観るのにはちょうどよい企画ね。 *館サイト、 http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2018marg.html

■ターナー、風景の詩

■損保ジャパン日本興亜美術館,2018.4.24-7.1 ■展示会の特徴は英国各美術館所蔵の水彩画が郡山市立美術館所蔵の版画と対で展示されていることです。 ターナーが版画を重視した理由に以下3点が場内に貼られていた・・。 1.彼自身の絵を普及させたかった 2.自分の絵を旅ガイトとして使ってもらいたかった 3.彼は版画の価値を知っていた 当時の版画の位置付けが分かります。 しかも彼は版画職人への注文指示も厳しかったらしい。 水彩画をじっくりみると看板の数ミリの文字まで読める。 地誌的風景への力の入れようも並大抵ではない。 版画に対しても五月蠅いことが分かります。 水彩画と版画を交互に見比べると版画の良さを再認識できる。 同時に水彩画の線や色の躍動感が素晴らしい。 ターナーの水彩画を近くに寄って舐めるように見たのは初めてです。 もちろん版画もです。 「崇高さ」とは違ったターナーを楽しめました。 ところでこの館で音声ガイドが付くのは記憶にない(利用しなかったが)。 特設サイトもそうです。 今回は「贅沢な時間」にする為の演出が行き届いていました。  *展示会サイト、 https://turner2018.com/ *「このブログを検索」語句は、 ターナー

■横山大観展

■東京国立近代美術館,2018.4.13-5.27 ■「夜桜」と「紅葉」は5月からの展示だった。 残念だけど、観る機会がよく有るから平気よ。 それより「朝陽霊峰」や「菊花」は多分初めてかも。 三の丸尚蔵館では常設展示しているのかしら? それにしても大観の人物や動物は漫画だわ。 「白衣観音」のキャプションに「デッサンが不得意・・」と書かれてあったけど笑っちゃった。 でも単純化された富士山に面白い作品が多い。 それと海の波もね。 色彩系では 「秋色」や「柿紅葉」が気に入ったわよ。 「生々流転」は「みる人を驚かせてやろう」(大観)という遊び心に連なる作品だとおもう。 これだけの数をまとめて時系列で観ることができる展示会はめったにない。 楽しかったわ。 *生誕150年記念展 *展示会サイト、 http://taikan2018.exhn.jp/ *「このブログを検索」語句は、 横山大観

■プーシキン美術館展-旅するフランス風景画-

■東京都美術館,2018.4.14-7.8 ■つくられた風景から在るが儘の風景へ、都市の風景から近郊の風景へ、南の風景へ海の向こうへ・・、旅をするかのように風景が広がっていく。 そんなことは気にせず1枚1枚楽しみながらみていく。 いつものように近くからみたあと5メートルくらい離れてみると絵の素晴らしさが倍増する。 離れたシスレーの3枚がとても良かった。 緑の多さと対照的なマルケのパリの街2枚が逆に清涼剤になっているのが面白い。 風景の広がり方は鉄道の発展と歩調を合わせていることに気付く。 鉄道と印象派の関係はよく話題になるし会場の解説にも載っていたからだ。 5章は「南へ」だが「北へ(ノルマンディー)」は省いたのかな? やはりロシアは太陽が恋しいのだろう。 クロード・モネ「草上の昼食」は目玉であるだけにじっくりみる。 木の葉や人物にあたる光が重いので空気が濃く感じられ湿度の量までわかる。 初夏のパリ郊外に居るようだ。 ルノワール、セザンヌ、ゴーギャン、ボナールも納得できる1枚があり満足。 *展示会サイト、 http://pushkin2018.jp/

■名作誕生-つながる日本美術-

■東京国立博物館・平成館,2018.4.13-5.27 ■「國華」は近頃見たことが無い。 「世界最古」の美術雑誌というとギリシャ・ローマ時代から続いているようでカッコイイ。 「つながる」を合言葉に先ずは鑑真や渡来仏師が木材を介して日本の仏教彫刻につなげていく。 会場で立像を両側にみながら歩いていくのは壮観である。 次に南宋・元画家が雪舟へ、鎌倉時代絵画が宗達へ、元・明画家が若冲へとつながっていく。 文正、若冲、探幽の鶴が並べられていたが若冲の光り輝く羽羽フサフサ感は素晴らしい。 そして伊勢物語・源氏物語が江戸の画や工芸につながっていく。 4章から山水をつなぐ、花鳥をつなぐ、人物をつなぐ、古今をつなぐ等々になり人物同士の直接の繋がり方が見えなくなる。 具体的には富士山や蓮などを介して多くの画家が繋がったと言うことらしい。 近代は岸田劉生の「野童女」が寒山とつながる。 「剽窃、模倣、継承、その上で創造・・」(佐藤康宏)。 美術作品が出来上がっていく過程では「つながる」のがあたりまえだと言ってよい。 *創刊記念「國華」130周年・朝日新聞140周年特別展 *館サイト、 http://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1889

■日本の四季-近代絵画の巨匠たち-

■汐留ミュージアム,2018.4.2-15 ■この美術館でこのようなタイトル展は珍しい。 しかも松下幸之助が収集したようね。 彼は絵については何も語らなかったらしい。 展示作品をみても彼の好き嫌いは抜きにして集めた感じだわ。  春・夏・秋・冬で章が組み立てられているの。 しかも違う作者の「椿」や「薔薇」を並べて比較できるようにしている。 自ずと比べてしまう。 「ツバキ」なら林武より中川一政のほうが、「バラ」も林武や梅原龍三郎より中川一政が気に入る。 もし中川一政の作品だけならここまで気に入るかしら? 面白い展示方法だわ。 「スイセン」なら上村松篁より山口華楊が断然いい。 「ミカン」なら速水御舟より福田平八郎ね。 「ツル」だと杉山寧や上村松篁より川端龍子だわ。 人それぞれだと思うけど楽しいわね。 そして大好きな小倉遊亀が6点もある。 「メロン」と「モモ」は一つの果物と陶器を描いているけどメロンも桃もとても硬く感じるの。 つまり陶器の硬さに迫っているけど柔らかい。 この微妙な差が、最高! 松下幸之助と意見が合ったわね。 *パナソニック創業100周年特別記念展 *美術館、 https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/18/index.html

■中平卓馬「氾濫」

■渋谷アイビスビル B1,2018.3.10-4.14 ■森山大道の作品を粗くしたような画面である。 粗さは粒子もそうだが被写体そのものをも貫通している。 二人は「生涯のライバル」だから影響を受け合ったのだろう。 「氾濫」は1974年国立近代美術館「15人の写真家」の一人として48点をまとめたインスタレーション作品として出展している。 今回は写真集「氾濫」の刊行に合わせての展示会らしい。 会場壁面には作品が再現されている。 1970年頃の匂いが漂っているが日常の風景とは違う。 都市深層の断片のようだ。 しかし東京に深層などあったのだろうか? 都市の過去はいつも深層があるようにみえるからだ。 あるのは表層の裂け目だけかもしれない。 写真は新しい過去=裂け目をいつも見せてくれる。 *exciteサイト、 http://ism.excite.co.jp/art/rid_E1520298838238/

■理由なき反抗

■ワタリウム美術館,2018.4.7-7.29 ■アンディ・ウォーホルの「理由なき反抗」はいいですね。 映画は並みの出来でしたが記憶に残ってます。 ジェームス・ディーンだからでしょう。 展示構成は1章レジスタンス、2章デザイン革命、3章理由なき反抗。 ・・でもここで何故デザイン革命なのか? それはともかくバックミンスター・フラーが「・・人類は太陽エネルギーだけでも生きていける」と1982年に言ってますが流石フラー先見の明がある。 それでも原発に固執し再生可能エネルギーを送る余裕が送電線に有るのに無いと反抗しているのは利権維持が理由でしょう。 理由が有るのに無いかのように反抗している森友問題も同じです。 理由なき反抗が清々しくみえます。 *館サイト、 http://www.watarium.co.jp/exhibition/1804rebelwithoutreason/index.html

■「光画」と新興写真  ■写真発祥地の原風景/長崎  ■原点を、永遠に。

■東京都写真美術館,2018.3.6-5.6 ■「光画」と新興写真-モダニズムの日本- ■同人雑誌「光画」が発行された1930年頃を背景に絵画主義を脱し新即物主義へ移行した新興写真の展示会である。 シュルレアリスムの影響もみえる。 当時の少ない情報を試行錯誤しながら作品を高めているのが分かる。 それにしても日本的新興である。 客観志向や機械優位、フォトグラムやフォトモンタージュ利用は分かるが生活記録や人生教訓なども方針に入っているのが面白い。 この新興写真は前衛と広告に引き継がれていく。 宣伝雑誌「FRONT」や「NIPPON」をみてもその記憶がみえる。 たとえプロパガンダでもカメラの冷たさが芸術性を招き寄せている。 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2964.html ■写真発祥地の原風景/長崎 ■「長崎づくし」でゲップがでてしまった。 長崎港がこれでもかと続くのには参りました。 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-2960.html ■原点を,永遠に。-2018- ■この展示会が一番面白かった。 観客も沢山入っているのに納得。 作品の陳列方法もいい。 著名写真家の35歳までの作品を年代降順で左壁に、公募で選んだ35歳以下の作品を年代降順で右壁に展示している。 撮影時期は1886年から2016年。 計95人409点だから一人4点前後になる。 次から次へと変化していく写真から目が離せなくなる。 作品の質も申し分ない。 4月17日から並び替えを作家順に変えて展示される。 また行ってもよい。 *清里フォトアートミュージアム(K★MoPA)収蔵作品展 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3000.html

■ヌード、英国テート・コレクションより

■横浜美術館,2018.3.24-6.24 ■人物でも特にヌードは独特な雰囲気があります。 作品を目の前にしたときの集中度が自ずと強くなるからでしょう。 風景画は分散していくし静物画は分散に向かう集中だからです。 集中し過ぎることが出来る、ということはヌードの力はやはり凄い。 しかもコレクション展の面白さがでていますね。 知らない画家や作品が多い為です。 時折有名画家がリズミカルに出てくる。 英国18世紀以降のヌードの見方もよく分かる。 ビクトリア朝時代は作品の一部を隠して展示していた。 20世紀後半では「平等な世界は女性のヌードが問題となることは無い」(リンダ・ノックリン)。 「見る側の所有欲を打ち砕く!」(シンディ・シャーマン説明文)。 デイヴィッド・ホックニーなど男性作品をみているとヌードの深みと複雑さが増していきます。 キャプションにはISM用語が多いのも特徴です。 この中で「ヴォーティシズム」は初めて聞きました。 「渦巻派」とも呼ばれているらしい。 あと絵画からみた「ブルームズベリー・グループ」。 どちらも英国20世紀初頭に起きた運動やグループです。 チラシに「そのヌードには、秘密がある」と書いてあったが、自身の身体が絵の中の身体と秘密のある対話をするので特別な面白さがありました。 *美術館、 https://yokohama.art.museum/exhibition/archive/2018/20180324-496.html

■マイク・ケリー展、DAY IS DONE

■ワタリウム美術館,2018.1.8-3.31 ■ポルターガイストの「エクトプラズム」や目淵黒塗りの「バンバイア」はみたことがあります。 でもマイク・ケリーは記憶にない。 彼の全体像を知ることができて嬉しいですね。 今回は高校時代の課外活動をまとめた映像作品「DAY IS DONE」(2005年)が主に展示されている。 写真を基に台本・音楽・ダンスで再構成していて制作の多くは彼自身が携わっているらしい。 米国1970年頃の日常に係わるキリスト教の季節行事がみえてくる。 これをポップ・アートでまとめた感じです。 しかし彼のベースに有るのはパンク・ロックでしょう。 登場人物の衣装・化粧・動作は当にそれです。 このパンク・ロックが効いているので作品に見応えが出ている。 自身の高校の課外活動を思い出したが米国は想像できません。 階級や人種・宗教が前面に出ている為かもしれない。 そして会場で説明があった彼の<トラウマ>がよく分からない。 彼の生きた時代地域の一般的なトラウマを指しているようにもみえる。 台詞の多い作品よりも音楽やダンスが主のほうが入り易かったのは確かです。 *館サイト、 http://www.watarium.co.jp/exhibition/1801mike/index.html

■en[縁]:アート・オブ・ネクサス

■監修:山名善之 ■ギャラリー間,2018.1.24-3.18 ■ヴェネチア・ビエンナーレ建築展の日本館を帰国展としてまとめた展示会。 「人の縁」「モノの縁」「地域の縁」の三つの縁がテーマなの。 会場で先ず目に入るのはシェアハウス。 具現化しやすいからだとおもう。 厨房や食堂、居間やトイレなどを一緒に使う、アパートなのに食堂だけある、ラウンジバーを設ける等々、どこをどこまで粗密にするかで案がバラける。 且つモノや地域を有機的に結び付けていく。 背景として現代社会の人間関係が大きく動いているからよ。 少子化と高齢化が加わった家族構成の変化も大きい。 監修担当は日本家族の再発見も考えているようね。     「大きな理想や革命を目指すわけでもない・・。 個々の具体から生活の質を改善、課題を丁寧に見つけ出し・・。 ブリコラージュ的様相を示したい・・。」とあったけど、人それぞれの生活習慣態度が違うから機能をダイナミックに選択できるようにしたい。 縁を深めていくと泥臭くなるから大変ね。 <建築からみた縁>だけなら<いいとこ取り>ができると思う。 *第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館帰国展 *館サイト、 https://jp.toto.com/gallerma/ex180124/index.htm *2018.3.25追記。 「ネットカフェ難民」をテレビニュースで見たけど、そこそこの収入が有るにもかかわらず難民ではなくて遂に住民になってしまったのね。 *日テレNEWSサイト、 http://www.news24.jp/articles/2018/03/24/07388838.html

■写真都市展-ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち-

■ディレクター:伊東俊治,会場構成:中原崇志,グラフィックデザイン:刈谷悠三,角田奈央 ■2121デザインサイト,2018.2.23-6.10 ■ウィリアム・クラインは映画監督だと思っていました。 このブログにも「 イン&アウト・オブ・ファッション 」を投稿している。 でも「ベトナムから遠く離れて」のアラン・レネやJ・L=ゴダールのような有名監督には見えない。 そして彼を写真家として作品をまとめて見たことがない。  都市と<積極的>に生きる人間をクラインは描いている。 積極的というのは都市から滲み出ている物事を良し悪しは別としても受け入れることを言います。 もう一歩踏み込んだ都市生活をしないとこの滲みはみえてこない。 都市を受け入れる人々の面白さが彼の作品にはある。 「22世紀を生きる」は刺激的な副題ですね。 人生八十数年だと22世紀を生きる人が既にこの世に生まれている・・。 今回は11人の写真家が登場します。 クラインとは切り口が違う作家もいる。 似ているのは水島貴大の東京大田区の人々の作品でしょう。 でも人々に余裕がないのは都市の余裕が無くなったからだとおもいます。 気に入ったのは沈昭良の台湾綜芸団の作品群です。 トラックの荷台を展開するとそのまま舞台に変わりそこで歌や踊りが行われる。 ビデオ作品もあったので状況がよく分かりました。 でもクラインの20世紀都市は殆んど見えない。 情報化された都市社会は人々の表面にはハッキリと現れないからでしょうか? *美術館、 http://www.2121designsight.jp/program/new_planet_photo_city/ ■thinking tools,2018.3.3-4.8 ■コントリビューション:クリストフ・ニーマン ■ドイツのペンブランド、ラミー(LAMY)のペン構想・誕生、出荷までの紹介展です。 *館サイト、 http://www.2121designsight.jp/gallery3/thinking_tools/

■寛永の雅-江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽-

■サントリー美術館,2018.2.14-4.8 ■「きれい」と聞くと澄み切っていて張りの有るイメージを思い浮かべる。 江戸時代が始まり社会も落ち着いてきた矢先なのでコッテリ美は誰もが避けたいはずだ。 小堀遠州、野々村仁清、狩野探幽の三人を中心に寛永美術を俯瞰している。 茶人遠州はなかなかの官僚だったらしい。 会場途中に3人を中心に良く出来ている人物関連図が掲示されていたが残念ながら撮影禁止。 幕府側は徳川秀忠と家光、朝廷は後水尾天皇と秀忠の娘東福門院和子である。 他に図で目立つのは金森宗和、本阿弥光悦など。 幕府・朝廷の上記の者を含め京都でサロンを舞台として交流していたらしい。 しかしサロンの具体的イメージが掴めない。 フランス美術展を思い出してしまった。 サロンというものを多元的に落とし込んだらもっと面白い展示になったと思う。 それでも探幽の絵や仁清の茶碗が夫々20、30点以上は展示されていたので、これだけでも満足したのは言うまでもない。 *館サイト、 https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2018_1/index.html

■谷川俊太郎展  ■なつかしき  ■宮本穂曇

■東京オペラシティ・アートギャラリー,2018.1.13-3.25 ■谷川俊太郎展 ■谷川俊太郎の詩に接するのは近頃では新聞に載ったときくらいでしょう。 でも「二十億光年の孤独」を読んだ時のことは覚えています。 詩人の日常は想像したことがない。 普通の人と変わりないはずですが。 会場を歩きながら・・。 やはり書簡に足が止まります。 あの有名人はこんな字を書くのか!とか。 それと友人知人との写真です。 一緒にいるのはあの有名人か!とか。 最後にモノです。 ラジオをこんなに持っている!とか。 こんな映画に感動したのか!とか。 ただし詩が印刷されていても会場装飾のようでまず読まない。 彼の履歴が廊下一杯に貼ってあった。 面白いのは1950年代迄です。 軽井沢で遊んだこと、どこの小学校に通ったのかなどです。 でも作品をどんどん発表しだした60年代以降はさっと目を通しただけです。 詩と同じように読まない。 詩人の展示会は詩から離れるほど面白い。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh205/ ■なつかしき ■二川幸夫の写真、芝康弘の絵画、川瀬巴水の版画の3人展です。 しかしどれも懐かしさはありません。 二川幸夫の家々や風景は学術的すぎます。 芝康弘はどこか現代的です、上手く言えませんが。 そして川瀬巴水は懐かしさを通り過ぎて過去の風景が広がっている。 でも二川幸夫の何枚かはなつかしさを感じます。 それは稲穂の揺れ、白黒ですが空の青さにです。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh206.php ■宮本穂曇 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh207.php

■くまのもの-隈研吾とささやく物質、かたる物質-

■東京ステーションギャラリー,2018.3.3-5.6 ■新国立競技場再コンペは伊東豊雄と隈研吾の応募しかなかった。 伊東案はギリシャ・ローマから続くオリンピックを意識させてくれる。 隈案は自然を取り込んではいるけど思想性が感じられない。 この理由が展示会をみて分かったの。 隈研吾は素材に着目して分類・整理・構築していく人のようね。 素材とは展示順で竹・木・紙・土・石・瓦・金属・樹脂・ガラス・膜と繊維を指す。 この素材からボトムアップで建築を完成させる(ようにみえる)。 でも素材の強調から建築物の骨格が見えない。 しかも表面は自然性が強くなる。 これが新国立競技場に現れている。 彼は服飾で言えばファッションデザイナーよりテキスタルデザイナーかもしれない。 舞台芸術だと美術や道具方の人が演出家も兼ねる感じかしら。 一味違った作品になるのは間違いない。 東京オリンピックが待ち遠しいわ。 *館サイト、 http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201803_kengo.html *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 オリンピック

■ルドン-秘密の花園-

■三菱一号館美術館,2018.2.8-5.20 ■常設作品「グラン・ブーケ」のキャプションにあるドムシー男爵の名前は今まで目に入らなかった。 この解説文章が今回やっと脳味噌に刻み込まれました。 花瓶を青にしたのもドムシー家食堂全体をルドンは意識したのでしょう。 その食堂の「黄色い背景の樹」の黄金色は暖かみがある。 しかも綿のような感触をしている。 これでドムシー男爵の食事は楽しくなったはずです。 食欲が進んだかどうかは分かりません。 「人物」が描かれている数枚はボナールを一瞬思い出させてくれる。 食堂装飾でルドンにまた一歩近づけました。 食堂以外にも目に留まった作品は多くありました。 「オジーヴの中の横顔」の澄み切った青緑などです。 ルドンの宇宙に繋がる空の青をみるとハッと目が活き返ります。 視覚する喜びを教えてくれる。 「ルドンは象徴主義のマラルメだ」とモーリス・ドニが言っていますが「動機を与えるだけ」の彼の作品はいつも謎が残ります。 これが作品を面白くもしている。 ルドンの何とも言えない混ざり合った色を楽しめる展示会でした。 *展示会サイト、 http://mimt.jp/redon/

■至上の印象派展、ビユールレ・コレクション

■国立新美術館,2018.2.14-5.7 ■この館の広さを思う存分使っての展示だ。 一部屋6枚から8枚のためゆとりも生まれる。 しかも初めての作品が多い。 1枚1枚じっくり観て来た。 そして部屋の中央に立ってグルッと絵を見回せば最高の至福がやってくる。 途中エミール・ゲオルク・ビュールレの経歴があった。 彼は第二次世界大戦に兵器製造会社で富を増やし絵画を収集したようだ。 美術は<作者⇔作品⇔観客>の構図で作品に直接する。 でも音楽や舞台や映画は<作者⇔演者⇔作品⇔観客>となり一筋縄ではいかない。 バッハのピアノ演奏を弾きながら虐殺を遂行する戦争映画や舞台を観たことがあるが、特に好きな曲では複雑な苦しさを感じる。 美術は戦利品・植民地獲得・企業経営成功などでコレクションされるが戦争と平和を越えて楽しむことが容易だ。 会場に戻るが、素晴らしいのは第5章「ドガとルノワール」の部屋である。 ドガの3枚とルノワールの3枚が溶け合い当に至上の印象が漂う。 そしてセザンヌ「扇子を持つセザンヌ夫人」をみては脳味噌が喜ぶのが分かる。 戻ってドラクロアの2枚も気に入る。 「選ぶスタイルを決める」そして「独自の意志を持って作品をまとめ上げる」とビユールレは言っているが、第1章「肖像画」も人物味が凝縮されていて彼の意志がみえる7枚だった。 今回はコレクション全体像だけではなくビュールレという人物を知ったのも嬉しい。 *展示会サイト、 http://www.buehrle2018.jp/

■ブリューゲル展、画家一族150年の系譜

■東京都美術館,2018.1.23-4.1 ■西洋美術館まで来たから序でに都美術館にも寄ったの。 ・・作品リストで気付いたけど出品101点の大部分が個人蔵のようね。 大作は少ないとも言える。 そして単眼鏡は必須よ。 チラッと見た限りではヤン・ブリューゲル1世と2世の作品が多いかな。 兄と違って独自のスタイルを持ったことが多い理由かも。 ピーテル・ブリューゲル1世と2世がそれに続く。 孫・ひ孫のアンブロシウスとアブラハムは10枚以下。 この5人で16世紀中頃からのフランドル100年の生活・自然・宗教の全体が見えてくる。 先ほど観てきた ベラスケス とほぼ同時代よ。 この一族はプロテスタントかしら? でも画家商売だと宗教で顧客を分けたくない。 「<ブリューゲル>はひとつのブランドとして確立されていく・・」。 これには頷ける。 作品に穴を開けて粉を落し輪郭を写し取る方法を知ったけど、ファッションならオートクチュールよりプレタポルテでしょう。 それはともかく家系図をジックリと見てしまったわ。 勘違をしていたことも過去に有ったようね。 父・子・孫・ひ孫を正確に区別して観てこなかった。 ウーン、弱った。 でも一族画家を比較しながら会場を回れるのはブリューゲルしかいない。 家系図をしっかり頭に叩き込んだからもう間違えない。 面白い企画で楽しめたわ。 *館サイト、 http://www.tobikan.jp/exhibition/2017_bruegel.html

■プラド美術館展-ベラスケスと絵画の栄光-

■国立西洋美術館,2018.2.24-5.27 ■画家ベラスケスの好き嫌いを考えたことがない。 要は無関心だったのね。 「7点も観ることができるのは事件だ!」と及川光博が言っていたけど最初はピンと来なかった。 でもプラド美術館を入口にしてベラスケスとスペイン国王フェリペ4世との関係や当時の美術界がじわりと深まっていく内容で満足度100%の展示会だったわ。 「狩猟服姿のフェリペ4世」は描く描かれる二人の世界観までみえてくる。 7作品のあらゆる階層や物語の人々は人生が何であるか知っている姿・眼差しで描き込まれている。 それを現実世界として展開するから彼が宮廷で昇進していったのも分かる気がする。 ルーベンスとの出会いも二人の組織や外交への豊な感受性が一致した為だと思う。 もちカトリック改革もあるけどね。 そのルーベンスがティツィアーノの作品を目にした喜びも発見だった。 また抽象的だけど内容は分かり易い章立てだったわよ。 「知識」のギリシャとキリスト教、「神話」の異教徒と裸体、「風景」の疎遠と親近、「静物」のボデコンを含めた俗世界の愉しみ等々がスペイン美術に輪郭を与えていた。 今年初めての満足できる展示会だった。 これは事件かしら? *日本スペイン外交関係樹立150周年記念展 *館サイト、 https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2018prado.html

■パリジェンヌ展、時代を映す女性たち

■世田谷美術館,2018.1.13-4.1 ■「パリジェンヌ」とは理想化された概念とあったが、もちろん版画・油彩・衣装・ポストカード・ブロンズ・ポスター・水彩でそれを指し示す対象物が展示されている。 しかし豪華な髪型や衣装からルソー影響下の良母や未亡人までをみていると際限なく広がっていくパリジェンヌに戸惑ってしまう。 サージェントなど数枚でアメリカへの伝播、モリゾやカサットなど数人で芸術への進出を論じるのも強引に感じる。 背景を知らなければ「マルグリット」の髪型はアメリカ・インディアンだろう。 しかも最終章ではパリジェンヌが街中至る所に出没している。 道端の野菜売りの女性の写真まである。 パリジェンヌとは何か?まとめきれないで会場をあとにした。 帰ってから手元の広辞苑で調べると「パリ生まれの女性」とあった。 ・・。 パリジェンヌを理想化したかったようだが千姿万態の女性がパリに溢れるのをみればオノレ・ドーミエも皮肉をいいたくなるだろう。 *展示会サイト、 http://paris2017-18.jp/

■絵画の現在、今日のわたしに会いにいく  ■牛島憲之と立軌会

■出品作家:今井俊介,木村彩子+近藤恵介,近藤亜樹,白井美穂,諏訪未知,津上みゆき,福士朋子 ■府中市美術館,2018.1.13-2.25 ■先月にみた「 クインテットⅣ 」よりも自由度がある。 題名通りの内容です。 「いま」の心から溢れ出てくる何かを対象に塗り付けた作品が多い。 近頃は絵画をみるとホットします。 コンピュータ作品に接することが多いからでしょう。 でも今井俊介はハンドメイドの匂いが残っている。 今わかりました。 絵画の現在とは懐かしさのことです。 それは副題にも通じます。 *館サイト、 https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/kikakuten/kikakuitiran/kaiganogenzai.html ■牛島憲之と立軌会 ■府中美術館へ行く楽しみは牛島憲之に会えることです。 今日は「灯台」(1956年)が気に入りました。 いつもと違って立軌会を中心とした画家たちの作品も並べられている。 彼は1927年の東光会を皮切りに主線美術協会、上杜会、創元会そして立軌会、1950年から1965年迄の檀会と歩んだようです。 20世紀激動の時代がみえてきます。 *館サイト、 https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/jyosetu/ushijima.html

■クインテットⅣ、五つ星の作家たち

■出品作家:青木恵美子,竹中美幸,田中みぎわ,船井美佐,室井公美子 ■損保ジャパン日本興亜美術館,2018.1.13-2.18 ■中堅作家5人の企画展です。 年代が近づくに従って作品の出来が良くなっているのがわかる。 昨年2017年の作品が一番です。 さすが上り坂の作家たちですね。 例えば青木恵美子では「INFINITY」シリーズが、田中みぎわの「玉響」「呼び声」特に「波間の子守唄」(4枚)は空気感にも張りがある。 室井公美子の「Shadow」以降は立体感が加わり見応えがあります。 また竹中美幸の35mmフィルムを使った作品は気に入りました。 中でも「titles2017-2」は黄緑っぽいフィルムが竹林のようで面白い。 船井美佐は新作が2点だけなのでなんとも言えない。 でも全作品を一部屋に集めると爽やかさが広がりますね。 「具象と抽象の狭間」というテーマは分かり易いので作品と繋げることができました。 名前を知らない作家たちを手頃な規模でまとめて観るのは楽しいものです。  *館サイト、 http://www.sjnk-museum.org/program/5165.html

■DOMANI・明日展-寄留者の記憶-

■出品作家:雨宮庸介,猪瀬直哉,田中麻記子,中谷ミチコ,中村裕太,西尾美也,増田佳江,mamoru,三宅砂織,盛圭太,やんツー ■国立新美術館,2018.1.13-3.4 ■「新進芸術家海外研修」を終えて日の浅いフレッシュマン11人の作品展なの。 絵画・彫刻・陶芸・メディアなど多義にわたるけど油絵がとても良かった。 田中麻記子の「PORTRAIT」の5枚、増田佳江の6枚、猪瀬直哉の何枚かが。 それと盛圭太の糸を使った作品かな。 でも副題との関係は分かり難い。 面白かったのは西尾美也の服の交換ビデオ。 道で行きかう他者と服を交換して記念写真をとるパフォーマンスよ。 あなたは見ず知らずの人と服を交換できる? そして最後の中谷ミチコは最高。 透明樹脂を型に流し込んで平面彫刻のような作品にしているの。 不思議で深みのある視覚感覚が持ててとても新鮮よ。 ところで雨宮庸介は一所懸命作品を作っていたけど出来たかしら? *館サイト、 http://www.nact.jp/exhibition_special/2017/20thdomani/

■石内都、肌理と写真

■横浜美術館,2018.12.9-2018.3.4 ■石内都の全体像をみることが出来る展示会です。 「横浜」「絹」「無垢」「遺されたもの」の4章17シリーズから構成されている。 後の3章は断片ですが時々みています。 「横浜」は初めてですね。 でも、その「横浜」は若さだけで撮っています。 作品内に看板文字や人影が写っていると読み込んでいくことができる。 しかし無文字無人の建物や廃墟の作品はどうしようもない。 直球で押し切っています。 「絹」へ来て世界が広がります。 絹の質感が何とも言えない。 光り輝いている素材の素晴らしさを発見できます。 しかも絹は昭和と大正時代を連れてくる。 それは衣服となりそのまま皮膚へ向かいます。 皮膚は再び時代に帰っていく。 行き来する時間が作品にこびり付いていくのです。 肌理という言葉が見事に作品を表していました。 *展示会サイト、 http://yokohama.art.museum/special/2017/ishiuchimiyako/ *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 石内都

■横山大観展-東京画壇の精鋭-

■山種美術館,2018.1.3-2.25 ■この美術館は会場が狭いので混んでいると落ち着いて観ることができない。 しかも地下へ降りていく階段が広いのでアンバランスにもみえる。 (作品搬入出の為かな。) ロッカーやトイレも狭い。 喫茶店も迫り窮屈を感じる。 ・・都心の美術館に無理を言ってもしょうがない。 久しぶりの横山大観に浸る。 今回気に入ったのは「作右衛門の家」「喜撰山」。 しかしいつ見ても大観の絵は漱石の言うとおりだ。 「間の抜けた、無頓着な、・・」*1。 大観は言う、「写生とは、その裏に潜むモノの精霊を表現するためにある」。 彼の絵はこれと格闘した連敗跡にみえる。 意識を向けたら精霊は消えてしまう。 気に入った2枚と「霊峰不二」は意識を押さえて精霊が現れている。 *1、 「横山大観展」(横浜美術館,2013年)  *館サイト、 http://www.yamatane-museum.jp/exh/2018/taikan.html

■神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の驚異の世界展

■Bunkamura・ザミュージアム,2018.1.6-3.11 ■昨年の「 アルチンボルド展 」は強く印象に残ったことを覚えている。 アルチンボルドを通してルドルフ2世がどのような人物か?ハッキリと見えたからである。 今回はルドルフ本人の展示会だからその先へ行けるのかと期待したが、残念ながら外れた。 展示されている作品をみてもルドルフの世界観が断片的にしか見えない。 作家たちはルドルフから命じられた内容を描いているだけにみえる。 アルチンボルドのようなディレクター能力が無いのかもしれない。 それをただ並べていてはルドルフから遠ざかるだけである。 「驚異の部屋」の圧倒的迫力を会場で体感できたら最高だったのだが・・。 *館サイト、 http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/18_rudolf/

■IS YOUR TIME,設置音楽2  ■オープン・スペース、未来の再創造

■NTTインターコミュニケーション・センター(ICC),2017.5.27-2018.3.11 ■IS YOUR TIME,坂本龍一with高谷史郎 ■「 坂本龍一、設置音楽展 」の第二弾で、ワタリウム美術館と同じ高谷史郎とのインスタレーションである。 大きな暗い部屋の壁周囲に十数台のスピーカと画面、奥に自動ピアノが置いてある。 音楽も空間もシンプルになっている。 東日本大震災で「近代を象徴する楽器を自然が物に返した」その後の一息ついた間奏曲風の感じがする。 それは年末に観た「 Ryuichi Sakamoto:CODA 」のその後でもある。 彼の音楽を越えた活動意欲は今年も衰えていない。 *館サイト、 http://www.ntticc.or.jp/ja/exhibitions/2017/sakamoto-ryuichi-with-takatani-shiro-installation-music-2-is-your-time/ *2018.3追記。 「津波ピアノ-坂本龍一と東北の7年-」NHKテレビでみる。 展示会の全体像が掴めた。 *NHKサイト、 http://www4.nhk.or.jp/P4785/x/2018-03-10/21/3529/2625207/ ■オープン・スペース2017,未来の再創造 ■出展者:ユェン・グァンミン,徳井直生+堂園翔矢,スグウェン・チャン,慶応義塾大学松川昌平研究室,鳴川肇研究室ほか ■展示サイクルが長いので1年以上も足が遠のいていた。 久しぶりに見て回る。 グレゴリー・バーサミアンの「ジャングラー」以外は初めての作品ばかりだ。 面白かったのはユェン・グァンミン「エネルギーの風景」。 これはドローンを飛ばして風景を低速度で撮影していくものだが、ゆっくりした動きを見ていると瞑想しているような感覚が得られる。 今は素人レベルだが技術的に向上すればより面白くなるだろう。 それと徳井直生+堂園翔矢「QOSMO」。 この予測系AI分野はもっと突っ込んでもよい。 鴨川肇の「オーサグラフ世界地図」は考案されて20年近く経つのに書店で見たことが無い。 今世紀に入り地図は断片化極小化されてしまったのだ。 しかし地図を持てば想像力を働かせて世界中を飛び回ることができる。 オーサグラフも手元に置いておきたい一つである。

■装飾は流転する

■出品者:ヴィム・デルヴォワ,ニンケ・コスター,山本麻紀子,山縣良和,高田安規子&政子,コア・ボア,アラヤー・ラートチャムルーンスック ■東京都庭園美術館,2017.11.18-2018.2.25 ■装飾とは何か? この展示は装飾を形容詞や副詞として位置付け作品本体の装飾性を感じ取ろうとしているのかしら? 7組のアーティストが出品しているけど先ず目にするヴィム・デルヴォワとニンケー・コスターは充実感が迫って来る。 作品に塗られている装飾性が光を放っているからだとおもう。 つまり装飾を感じるには本体のマッスが必要と言うことね。 例えば2階へ上って次に目にする山縣良和は装飾しかみえない。 楽しいけれど形容詞の塊のような作品だわ。 高田安規子&政子は作品が凝縮しているから装身具に近づいていく。 本体=名詞と装飾=形容詞が融合した装飾品のようにみえる。 そして最後にみたアラヤー・ラートチャムルーンスックの映像は凄い。 遺体安置所の花柄布を覆った死者たちの横で作者がタイ古典文学「イナオ」を詠唱するの。 これを見て日本の葬儀を思い出してしまった。 装飾とは死者を弔うために出現したのだとようやく分かった。 装飾とは何か?をいろいろ考えたので正月ボケが抜けたかな・・。 そして今回は各部屋を別の方向から眺めることができて楽しかったわ。 例えばバスルームは窓側から見ることができたし、普段閉じている窓も開いていて外の景色を楽しむことができた。 *館サイト、 http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/171118-180225_decoration.html

■池田重子、横浜スタイル展

■そごう美術館,2017.12.13-2018.1.8 ■展示会チラシのコクのある色柄に目が留まり実物を観たくなって横浜へ足を運びました。 KIMONOの展示です。 等身人形に着付けした着物は素人にも入り易いですね。 池田重子は着物の製造過程から入っているのかと思っていたのですがその比重は小さいようにみえる。 収集家ですか。 これは彼女のコーディネート展示会です。 会場の解説に「50歳過ぎに、ある帯留をみて身震いしたのでこの道に入った・・」と書いてある。 いやー、凄い人だと感じました。 これで帯留もしっかり見てきました。 作品タイトルの付け方も面白い。 柄で4つに分けているようにみえる。 具体的な帯柄と抽象的な着物柄、その逆の抽象と具体、抽象と抽象、具体と具体です。 もちろん具体と抽象が一番多い。 分かり易い例だと帯に歌舞伎役者の似顔絵があれば着物柄は歌舞伎座の縦じま緞帳を持ってくる等々です。 抽象と抽象は同季節を重ね合わせる場合に使う。 全体的な色彩は彼女の感性でしょう。 「横浜で生まれた美意識」とあったが江戸と横浜が拮抗しているハイカラとでも言うのでしょうか? 彼女の私室写真が飾ってあったが中国風にもみえて混乱しました。 でもさすが横浜ですね。 正月を華やかにする展示会でした。 ついでにそごう横浜店内をうろうろと見物し食事をしてきました。 *館サイト、 https://www.sogo-seibu.jp/common/museum/archives/17/ikeda_shigeko/index.html