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■フェルメールからのラブレター展

■Bunkamura.ザミュージアム,2011.12.23-2012.3.14 ■「手紙を書く女と召使」の模造紙のような白い衣装、深みのあるテーブルクロス、床模様は素晴らしいわ。 修復前の「手紙を読む青衣の女」の青ではやっぱりだめよね。 でもフェルメールはどういうわけか感動したことがないの。 いい絵だけど。 手紙と厳格なプロテスタント市民の生活、商業国としての公証人や弁護士の活躍の三つがテーマ。 ほんとうにこのような手紙のやり取りをしていたのかしら? 諺や格言が混じっているようだし市民へのプロテスタントの影響力がわからないと読み誤るかも。 今回は3月の「地理学者」の展示と比較してダイナミックに欠けるわ。 手紙はプライバシーがあるから閉じられた世界になってしまうのも理由かも。 そしてシュテーデル美術館は別格だもんね。 でもこの師走にフェルメールに3点も出会えて幸せよ。  *館サイト、 http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/11_loveletter/index.html

■2011年美術展ベスト10

・佐藤忠良 - ある造形家の足跡 - ・・・・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/01/blog-post_8.html ・建築家白井晟一-精神と空間-・・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/01/blog-post.html ・倉俣史朗とエットレ・ソットサス展・・・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/02/blog-post_4.html ・平山郁夫と文化財保護展・・・・・・・・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/03/blog-post_5.html ・フェルメール「地理学者」とフランドル絵画展・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6.html ・ワシントンナショナル・ギャラリー展・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/06/blog-post_11.html ・モーリス・ドニ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/09/blog-post_19.html ・川上音二郎・貞奴展・・・・・・・・・・・・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/09/blog-post_27.html ・感じる服考える服-東京ファッション- http://ngswty.blogspot.jp/2011/10/blog-post_25.html ・歌川国芳展・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ http://ngswty.blogspot.jp/2011/12/blog-post_23.html *並びは開催日順。  選出範囲は当ブログに書かれた作品。

■ヴァレリオ・オルジャティ展

■東京国立近代美術館,2011.11.1-12.1.15 ■1/33の白い作品模型、画面で見る写真、影響した歴史建築写真の3点セットで展示されています。 ぶ厚い材料を使ったゴッツイ作品でなぜかおもしろさと懐かしさがあります。 日本的繊細さの反対にある建築物です。 作成にあたって影響した歴史建築の写真がとても効果的です。 これをみて建築家が何を考えていたのかを想像するのが楽しい会場です。 そして模型を見る。 実際の写真を見る。 この3点セットで作品が意味ある姿として再現できます。 「観客の感情に強い印象を与えるために展示では書き言葉は不要だ」と作者は言っていますがその通りです。 展示会でキャプションや解説で感動が薄れてしまう場合がよくあります。 知識は増えるが感動が減るような展示は面白くありません。 *館サイト、 http://archive.momat.go.jp/Honkan/Valerio_Olgiati.html

■歌川国芳展、没後150年

■森アーツセンターギャラリ,2011.12.17-2012.2.12 ■400点もの作品をジックリみることができて満足だわ。 天保の改革で美人や役者・遊女が禁止になり、子ども絵や動物画へ興味を広げたのはさすがね。 やはり危機に強くなきゃだめ。 気に入ったのは水滸伝や武者絵シリーズの若いころの作品よ。 洗練されてないけど細かい中に力強さがある。 美人画が健康的と言われるのは多分鼻筋が通っている涼しげな顔をしているからそのように見えるのね。  国芳の全貌と江戸末期の庶民の生活が見える素晴らしい展示会だった。 *インタネットミュージアム、 http://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input%5Bid%5D=76700

■ぬぐ絵画-日本のヌード1880-1945-

■東京国立近代美術館,2011.11.15-12.1.15 ■春画や混浴の文化があるのになぜヌード絵画は騒ぎ立てるのか? 展示は黒田清輝から萬鐵五郎へと続くがこのあたりまでは面白い。 ヨーロッパ思想としての人体とは何かがハッキリ説明されていて日本文化と比較できるからだ。 しかし次の裸を壊したり、恋したり、作りなおすとボヤけてくる。 普段あまり見ない古賀春江や熊谷守一を持って来られてもどうもピンとこない。 最後の小出楢重や安井曾太郎はもはや個別のおもしろさだ。 ここで出口になってしまう。 中途半端な終わり方にみえた。 最後のまとめでもあれば。が打てたのに。 でもヌードだから文句は言えない。  *作品サイト、 http://www.momat.go.jp/Honkan/Undressing_Paintings/highlight/index.html

■見えない世界のみつめ方

■東京都写真美術館,2011.12.13-12.1.19 ■世界を新しい方法で分節化すると新しい認識が可能になる3例、オーサグラフ、コーポラのスーパーアイ、VIT2.0が展示されている。 オーサグラフは新しい世界地図のようね。 日本を中心とした場合のアフリカや南アメリカの傾いた形は、地球が球だったことを思い出してしまう、大陸間の距離が真実い近づいているようにみえる、国間の関係が新しく見えてしまう等々、素晴らしい地図だわ。 スーパーアイは対象物の空間位置を記述し処理するシステムらしいけど、展示作品は数値がむき出しになっていて熟されていない感じね。 VIT2.0は対象物のある属性を抽出し拡大して認識する方法みたい。 でも作品はフリーズして動いていなかったの。 オーサグラフ以外は作品が中途半端。 もっと展示をわかりやすくしてね。 ICCはずっこけたし、コダックは倒産状態、富士フィルムは化粧品や薬に進出の時代だから、そろそろ写真美術館も衣替えが必要かな。 今回のようなテーマを充実してほしいわ。 *チラシ、 http://syabi.com/upload/3/1452/2011_013_a.pdf

■セガンティーニ

■損保ジャパン東郷青児美術館 ■冷えていて乾いた空気、肌を刺すような光。 「アルプスの真昼」は空間が響き渡るような明るい絵だ。 しかし凝縮した粘り気のある山々は清楚で静けさのある自然ではない。 高い山へどんなに逃げてもヨーロッパという意味ある重みがつきまとっている。 だから日本の風景画を見た時のような開放感は訪れない。 しかも晩年は象徴主義に向かうからなおさらだ。 アルプス三部作、生-自然-死、は写真展示だったがわかり易い絵だ。 背景に輪廻の思想があるからだろう。 場内のビデオで実際のアルプスが映し出されていたがやはり日本とは違う感じだ。 スイスへ行ってトレッキングでもしないと本当のアルプスの真昼はわからないのかもしれない。 *館サイト、   http://www.sjnk-museum.org/program/past/343.html

■写真の飛躍

■東京都写真美術館,2011.12.10-12.1.29 ■写真家5人の新作です。 写真の根源的手法を身体を通して再考するのがテーマのようです。 背景にあるのはIT技術を駆使した画像処理の格段の進歩です。 しかし原点を再考するというよりこの背景にあるものへの些細な戦いにみえました。 この館には珍しくビデオで西野壮平と北野謙の作成過程を上映していました。 「DIORAMA MAP」の劣化版は観光地図などでよく見たことがあります。 また「OUR FACE」の近い方法としては画像処理の普遍顔作成でお馴染みです。 このビデオではこれをハンドメイドとして強調していることです。 つまり手間隙かけて多くの人や多くの時間をかけて作成した作品だということをです。 これで微妙な表現や感性を提示しても未来への展望が開けるわけではありません。 春木麻衣子のように「想像」するほうがつかの間の明るさがあります。 写真の飛躍は可能なのでしょうか?  *チラシ、 http://syabi.com/upload/3/1450/2011_012_a.pdf

■島田章三展

■横須賀美術館,2011.11.19-12.25 ■安井賞受賞を含め欧州留学前後が一番生きている。 留学中のパリのデッサンも伸び伸びしている。 しかし留学後「キュビスムを日本人の言葉で翻訳する」のを課題にしてしまい自身を縛ってしまったようだ。 鳥を描くのもこれから「解放されたい」からである。 この中でコラージュが面白い。 本人も「画布に置いたら決定される・・、作品がとても早くできあがる・・」と言っているように、選択や判断の多いコラージュは生涯の課題を忘れることができたのだろう。 この美術館は三浦半島の端にあるからけっこう遠い。 島田章三展だから行く決心がついたが並の企画展なら諦めがつく遠さだ。 しかしここへ来て海を眺めると解放された気分になれるからいい。  *館サイト、 http://www.yokosuka-moa.jp/exhibit/past/past-40.html

■池袋モンパルナス

■板橋区立美術館,2011.11.19-12.1.9 ■入口に「不便でゴメンネ」の垂れ幕がかかっていたけど区立では一番不便よね。 市立も入れると府中市美術館と同じくらいかな? 近くの駅からバスに乗らなきゃいけない。 しかもバスは1時間に2・3本しか無いところがネ。 そしてタクシーを探すことになる。 1930年頃に画家たちが池袋周辺になぜ集まったのか? それはアトリエ付き賃貸住宅が造られたから。 靉光・麻生三郎・松本竣介・福沢一郎や初めて聞く画家たちがこの地区に出入りしていたなんて知らなかったわ。 展示作品は戦争が背景にあっても希望が感じられる。 日常生活まで入り込んだ彼らの団結力が希望を失わなかった理由だとおもう。 今ではこの地区を歩いても副都心外側の見馴れた住宅街の風景しか残っていない。 パリと違って 時間と空間の平坦が多い 東京は このような身近な歴史を積み重ねて街の姿・形を作っていくことは必要ね。 *館サイト、 http://www.itabashiartmuseum.jp/art-2013/schedule/e2011-06.html  

■ストリート・ライフ

■東京都写真美術館 ■ http://syabi.com/upload/3/1448/street_20life.pdf ■英3人・仏2人・独2人、計7名のヨーロッパ・ソーシャル・ドキュメンタリー展らしい。 見応えのあるのは英国3人の作品である。 初めて聞く写真家だが19世紀後半のロンドンとグラスゴーの産業革命下の底辺の人々、街並みが写しだされている。 背景にある救貧法や慈善事業などの社会福祉までも思い出してしまう近代資本主義社会総動員のリアルな作品ばかりだ。 まさに「見るもの以上のものが写っている」。 これに比して仏・独はお馴染みのアジェやブラッサイ、アウグスト・ザンダーで作品はより「芸術的」である(ハインリッヒ・ツィレは素人写真家のようにみえる)。 この差は写真家の個人的な資質や生活環境、撮影目的の違いも大きいのだろう。 独仏も英国のレベルにあわせていたら19世紀後半のヨーロッパはより深みを持ったはずである。 ソーシャルとは何かあらためて考えてしまった。 

■長谷川等伯と狩野派

■出光美術館,2011.10.29-12.18 ■対屋事件や探幽の陰謀など面白いコラムで煽っているようだが、互いに切磋琢磨するから競合他社の存在は貴重だ。 等伯の絵画への探究心、経営戦略への位置づけなどは展示話題以外でも多いように予想できる。 等伯は3作品が展示されているが、強敵永徳の「鷲捕兎図屏風」と比較しても動物の生き活きさ面白さはこれを上回る。 また長谷川派と狩野派の「波濤図屏風」や「藤棚図屏風、麦芥子図屏風」などを比較して観るのは楽しい。 長谷川派がやまと絵に傾倒していったのも今回知った。 「柳橋水車図屏風」はちょっと硬さがあるが、「宇治橋柴舟図屏風」などは自然物をもっと取り込めば曼荼羅に近づく面白さもでるはずだ。 作品は全24点、散歩ついでの規模で観やすかった。 *美術館、 http://idemitsu-museum.or.jp/exhibition/past/

■野見山暁治展

■ブリジストン美術館 ■ http://www.bridgestone-museum.gr.jp/exhibitions/ ■初めて知った画家です。 心象風景画のようです。 残念ながらツマラナイ絵ばかりです。  「誰も知らない」「なにも言わない」「もう時間がない」「誰にも負けない」「黙っていよう」「いつかは会える」・・・など、題名をみても人生彷徨っている感じです。 1990年代までは「自然の本質を突きつめる」とありましたが多くの雑音を抱えてしまったのではないでしょうか? 2000年代は「構成や形態から解放された」とありました。 赤色系も多くなり明るさがでているようです。 少しほっとしました。 

■あゝ荒野

■ポスターハリスギャラリ,2011.11.17-30 ■今回戯曲本が出版され上演もされている。 その関連?の森山大道の写真展である。 展示会の原本も2005年に発売されているのを知った。 寺山修司の短歌とともに場内にその作品が並べられている。 会場はマンションの一室で作品をジックリみるには息苦しい。 森山の60年代の写真は寺山の世界によく似合う。 というより誰を持ってきても合いそうだ。 理由として森山の若き年齢が60年代と共に走れたから。 時代と走れることは滅多に来ない。    「公園まで嘔吐せしもの捨てに来てその洗面器しばらく見つむ」 公園の雰囲気、色、匂い、そして洗面器の重みまで筋肉に伝わってくる。 読者の肉体が総動員してしまう歌だ。 言葉が身体化するこの感覚と、森山の写真が持つ確かな存在感とが共鳴するのがコラボの面白さかもしれない。 汚かったからもう一句・・    「わが切りし二十の爪がしんしんとピースの罐に冷えてゆくなり」 *チラシ、 http://www.terayamaworld.com/museumnews/kouya_misawa_a4_11.2_02.jpg

■建築・アートがつくりだす新しい環境-これからの”感じ”-

■東京都現代美術館 ■ http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/129/1 ■建築家が30人近くも集まると作品は寄せ集めで方向はバラバラに見えてしまうわ。 これが「これからの感じ」なのかしら? ビデオも10本近くあり、しかも最初が原広司の40分ものの禅問答だけどこれでは鑑賞方法が最初から崩れてしまうわね。 SANAAの企画だから「ロレックス・ラーニングセンタ」の模型で始まり映像で終わっているの。 映像はW・ヴェンダースが手がけてるけど広告のような感じ。 「・・私の存在の形は継続的な現前・・」と肯定も否定もしていないところがこの建物の特徴ね。 気に入った作品は「エイト・スプルース・ストリート」。 この目眩は最高ね。 さすがゲーリー。 でも他作品との関係がわからない。 誰のための展示会か?がいつも頭を過ぎるわ。 来るべき「人間性」を求めるにはあらゆる冗長性が必要かもしれないけど、これでは一般客は美術館に来ないわね。