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3月, 2018の投稿を表示しています

■マイク・ケリー展、DAY IS DONE

■ワタリウム美術館,2018.1.8-3.31 ■ポルターガイストの「エクトプラズム」や目淵黒塗りの「バンバイア」はみたことがあります。 でもマイク・ケリーは記憶にない。 彼の全体像を知ることができて嬉しいですね。 今回は高校時代の課外活動をまとめた映像作品「DAY IS DONE」(2005年)が主に展示されている。 写真を基に台本・音楽・ダンスで再構成していて制作の多くは彼自身が携わっているらしい。 米国1970年頃の日常に係わるキリスト教の季節行事がみえてくる。 これをポップ・アートでまとめた感じです。 しかし彼のベースに有るのはパンク・ロックでしょう。 登場人物の衣装・化粧・動作は当にそれです。 このパンク・ロックが効いているので作品に見応えが出ている。 自身の高校の課外活動を思い出したが米国は想像できません。 階級や人種・宗教が前面に出ている為かもしれない。 そして会場で説明があった彼の<トラウマ>がよく分からない。 彼の生きた時代地域の一般的なトラウマを指しているようにもみえる。 台詞の多い作品よりも音楽やダンスが主のほうが入り易かったのは確かです。 *館サイト、 http://www.watarium.co.jp/exhibition/1801mike/index.html

■en[縁]:アート・オブ・ネクサス

■監修:山名善之 ■ギャラリー間,2018.1.24-3.18 ■ヴェネチア・ビエンナーレ建築展の日本館を帰国展としてまとめた展示会。 「人の縁」「モノの縁」「地域の縁」の三つの縁がテーマなの。 会場で先ず目に入るのはシェアハウス。 具現化しやすいからだとおもう。 厨房や食堂、居間やトイレなどを一緒に使う、アパートなのに食堂だけある、ラウンジバーを設ける等々、どこをどこまで粗密にするかで案がバラける。 且つモノや地域を有機的に結び付けていく。 背景として現代社会の人間関係が大きく動いているからよ。 少子化と高齢化が加わった家族構成の変化も大きい。 監修担当は日本家族の再発見も考えているようね。     「大きな理想や革命を目指すわけでもない・・。 個々の具体から生活の質を改善、課題を丁寧に見つけ出し・・。 ブリコラージュ的様相を示したい・・。」とあったけど、人それぞれの生活習慣態度が違うから機能をダイナミックに選択できるようにしたい。 縁を深めていくと泥臭くなるから大変ね。 <建築からみた縁>だけなら<いいとこ取り>ができると思う。 *第15回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館帰国展 *館サイト、 https://jp.toto.com/gallerma/ex180124/index.htm *2018.3.25追記。 「ネットカフェ難民」をテレビニュースで見たけど、そこそこの収入が有るにもかかわらず難民ではなくて遂に住民になってしまったのね。 *日テレNEWSサイト、 http://www.news24.jp/articles/2018/03/24/07388838.html

■写真都市展-ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち-

■ディレクター:伊東俊治,会場構成:中原崇志,グラフィックデザイン:刈谷悠三,角田奈央 ■2121デザインサイト,2018.2.23-6.10 ■ウィリアム・クラインは映画監督だと思っていました。 このブログにも「 イン&アウト・オブ・ファッション 」を投稿している。 でも「ベトナムから遠く離れて」のアラン・レネやJ・L=ゴダールのような有名監督には見えない。 そして彼を写真家として作品をまとめて見たことがない。  都市と<積極的>に生きる人間をクラインは描いている。 積極的というのは都市から滲み出ている物事を良し悪しは別としても受け入れることを言います。 もう一歩踏み込んだ都市生活をしないとこの滲みはみえてこない。 都市を受け入れる人々の面白さが彼の作品にはある。 「22世紀を生きる」は刺激的な副題ですね。 人生八十数年だと22世紀を生きる人が既にこの世に生まれている・・。 今回は11人の写真家が登場します。 クラインとは切り口が違う作家もいる。 似ているのは水島貴大の東京大田区の人々の作品でしょう。 でも人々に余裕がないのは都市の余裕が無くなったからだとおもいます。 気に入ったのは沈昭良の台湾綜芸団の作品群です。 トラックの荷台を展開するとそのまま舞台に変わりそこで歌や踊りが行われる。 ビデオ作品もあったので状況がよく分かりました。 でもクラインの20世紀都市は殆んど見えない。 情報化された都市社会は人々の表面にはハッキリと現れないからでしょうか? *美術館、 http://www.2121designsight.jp/program/new_planet_photo_city/ ■thinking tools,2018.3.3-4.8 ■コントリビューション:クリストフ・ニーマン ■ドイツのペンブランド、ラミー(LAMY)のペン構想・誕生、出荷までの紹介展です。 *館サイト、 http://www.2121designsight.jp/gallery3/thinking_tools/

■寛永の雅-江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽-

■サントリー美術館,2018.2.14-4.8 ■「きれい」と聞くと澄み切っていて張りの有るイメージを思い浮かべる。 江戸時代が始まり社会も落ち着いてきた矢先なのでコッテリ美は誰もが避けたいはずだ。 小堀遠州、野々村仁清、狩野探幽の三人を中心に寛永美術を俯瞰している。 茶人遠州はなかなかの官僚だったらしい。 会場途中に3人を中心に良く出来ている人物関連図が掲示されていたが残念ながら撮影禁止。 幕府側は徳川秀忠と家光、朝廷は後水尾天皇と秀忠の娘東福門院和子である。 他に図で目立つのは金森宗和、本阿弥光悦など。 幕府・朝廷の上記の者を含め京都でサロンを舞台として交流していたらしい。 しかしサロンの具体的イメージが掴めない。 フランス美術展を思い出してしまった。 サロンというものを多元的に落とし込んだらもっと面白い展示になったと思う。 それでも探幽の絵や仁清の茶碗が夫々20、30点以上は展示されていたので、これだけでも満足したのは言うまでもない。 *館サイト、 https://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/2018_1/index.html

■谷川俊太郎展  ■なつかしき  ■宮本穂曇

■東京オペラシティ・アートギャラリー,2018.1.13-3.25 ■谷川俊太郎展 ■谷川俊太郎の詩に接するのは近頃では新聞に載ったときくらいでしょう。 でも「二十億光年の孤独」を読んだ時のことは覚えています。 詩人の日常は想像したことがない。 普通の人と変わりないはずですが。 会場を歩きながら・・。 やはり書簡に足が止まります。 あの有名人はこんな字を書くのか!とか。 それと友人知人との写真です。 一緒にいるのはあの有名人か!とか。 最後にモノです。 ラジオをこんなに持っている!とか。 こんな映画に感動したのか!とか。 ただし詩が印刷されていても会場装飾のようでまず読まない。 彼の履歴が廊下一杯に貼ってあった。 面白いのは1950年代迄です。 軽井沢で遊んだこと、どこの小学校に通ったのかなどです。 でも作品をどんどん発表しだした60年代以降はさっと目を通しただけです。 詩と同じように読まない。 詩人の展示会は詩から離れるほど面白い。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh205/ ■なつかしき ■二川幸夫の写真、芝康弘の絵画、川瀬巴水の版画の3人展です。 しかしどれも懐かしさはありません。 二川幸夫の家々や風景は学術的すぎます。 芝康弘はどこか現代的です、上手く言えませんが。 そして川瀬巴水は懐かしさを通り過ぎて過去の風景が広がっている。 でも二川幸夫の何枚かはなつかしさを感じます。 それは稲穂の揺れ、白黒ですが空の青さにです。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh206.php ■宮本穂曇 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh207.php

■くまのもの-隈研吾とささやく物質、かたる物質-

■東京ステーションギャラリー,2018.3.3-5.6 ■新国立競技場再コンペは伊東豊雄と隈研吾の応募しかなかった。 伊東案はギリシャ・ローマから続くオリンピックを意識させてくれる。 隈案は自然を取り込んではいるけど思想性が感じられない。 この理由が展示会をみて分かったの。 隈研吾は素材に着目して分類・整理・構築していく人のようね。 素材とは展示順で竹・木・紙・土・石・瓦・金属・樹脂・ガラス・膜と繊維を指す。 この素材からボトムアップで建築を完成させる(ようにみえる)。 でも素材の強調から建築物の骨格が見えない。 しかも表面は自然性が強くなる。 これが新国立競技場に現れている。 彼は服飾で言えばファッションデザイナーよりテキスタルデザイナーかもしれない。 舞台芸術だと美術や道具方の人が演出家も兼ねる感じかしら。 一味違った作品になるのは間違いない。 東京オリンピックが待ち遠しいわ。 *館サイト、 http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201803_kengo.html *「このブログを検索」欄に入れる語句は、 オリンピック

■ルドン-秘密の花園-

■三菱一号館美術館,2018.2.8-5.20 ■常設作品「グラン・ブーケ」のキャプションにあるドムシー男爵の名前は今まで目に入らなかった。 この解説文章が今回やっと脳味噌に刻み込まれました。 花瓶を青にしたのもドムシー家食堂全体をルドンは意識したのでしょう。 その食堂の「黄色い背景の樹」の黄金色は暖かみがある。 しかも綿のような感触をしている。 これでドムシー男爵の食事は楽しくなったはずです。 食欲が進んだかどうかは分かりません。 「人物」が描かれている数枚はボナールを一瞬思い出させてくれる。 食堂装飾でルドンにまた一歩近づけました。 食堂以外にも目に留まった作品は多くありました。 「オジーヴの中の横顔」の澄み切った青緑などです。 ルドンの宇宙に繋がる空の青をみるとハッと目が活き返ります。 視覚する喜びを教えてくれる。 「ルドンは象徴主義のマラルメだ」とモーリス・ドニが言っていますが「動機を与えるだけ」の彼の作品はいつも謎が残ります。 これが作品を面白くもしている。 ルドンの何とも言えない混ざり合った色を楽しめる展示会でした。 *展示会サイト、 http://mimt.jp/redon/

■至上の印象派展、ビユールレ・コレクション

■国立新美術館,2018.2.14-5.7 ■この館の広さを思う存分使っての展示だ。 一部屋6枚から8枚のためゆとりも生まれる。 しかも初めての作品が多い。 1枚1枚じっくり観て来た。 そして部屋の中央に立ってグルッと絵を見回せば最高の至福がやってくる。 途中エミール・ゲオルク・ビュールレの経歴があった。 彼は第二次世界大戦に兵器製造会社で富を増やし絵画を収集したようだ。 美術は<作者⇔作品⇔観客>の構図で作品に直接する。 でも音楽や舞台や映画は<作者⇔演者⇔作品⇔観客>となり一筋縄ではいかない。 バッハのピアノ演奏を弾きながら虐殺を遂行する戦争映画や舞台を観たことがあるが、特に好きな曲では複雑な苦しさを感じる。 美術は戦利品・植民地獲得・企業経営成功などでコレクションされるが戦争と平和を越えて楽しむことが容易だ。 会場に戻るが、素晴らしいのは第5章「ドガとルノワール」の部屋である。 ドガの3枚とルノワールの3枚が溶け合い当に至上の印象が漂う。 そしてセザンヌ「扇子を持つセザンヌ夫人」をみては脳味噌が喜ぶのが分かる。 戻ってドラクロアの2枚も気に入る。 「選ぶスタイルを決める」そして「独自の意志を持って作品をまとめ上げる」とビユールレは言っているが、第1章「肖像画」も人物味が凝縮されていて彼の意志がみえる7枚だった。 今回はコレクション全体像だけではなくビュールレという人物を知ったのも嬉しい。 *展示会サイト、 http://www.buehrle2018.jp/