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■山口華楊展

■作家:山口華楊,西村五雲 ■SOMPO美術館,2026.7.11-8.30 ■山口華楊は京都ではなじみ深い存在だが、東京での回顧展はじつに27年ぶりとなる。 日本画の魅力は、動物をじっくり観察し、その存在の気配まで描きとる点にあるが、華楊の写生はとりわけ対象の真髄に迫っている。 家畜を描いた作品、「山羊」(1924))、「耕牛」(1934)、「草」(1941)はいずれも生命の重さが画面に宿り、暈しの効果が静かな安らぎをもたらしていた。 花鳥画家としての力量も遺憾なく発揮されている。 「青蓮院の老木」(1973)の老木や、「白露」(1974)の向日葵や鶏頭には動物に通じる生命感がみなぎり、華楊の観察眼の広さを実感した。 会場には、海軍省派遣画家としてアンボン島で写生した作品も展示されていた。 アンボン島は、戦時中に父が滞在していた場所である。  陸軍兵士として南方の島々を転々とした父の記憶がふと蘇り、作品を前にしばし立ち尽くしてしまった。 戦後の華楊は「偉大なる動物画家」として大成する。  写生の精度は衰えず、そこに抽象性が加わることで、画面に精神性が立ち上がってくる。 見慣れた家畜だけでなく、「虎」(1956)、「黒豹」(1960)、「ライオン」(1962)などの作品では、動物の姿を通して内面世界を描こうとする意志が感じられる。 その到達点として描かれた「幻化」(1979)では、「すべてのものに実体はない」という仏教的な思想が明確に示される。 実体と非実体という背反する概念を、画面の上で統合してみせた稀有な画家であることを改めて思った。 今日は、日本画の奥行きを十二分に味わうことができた。 *開館50周年記念展 *美術館、 https://www.sompo-museum.org/exhibitions/2025/yamaguchikayo/

■ほぼ、空=青木淳+リチャード・タトル ■東山詩織

*以下の2展示□を観る. ■東京オペラシティアートギャラリー,2026.7.18-9.23 □ほぼ空,青木淳+リチャード・タトル ■館入口近くのショップが展示室として取り込まれており、既存の空間がそのまま拡張されたように感じられた。 薄暗い会場に足を踏み入れると、がらんどうの空間に大きな白い柱が数本立ち、天井からは針葉樹の枝を収めたバスケットがいくつも吊り下げられている。 壁面には、色の帯のような布が点在するように貼りつけられていた。 ほとんど何もない空間に靴音だけが響き、数枚の野田穫の絵が配置されている。 途中のコリドールはショップとして機能しており、展示と日常の境界が曖昧に混ざり合っていた。 薄暗い二階へ進むと、白い柱・バスケット・帯という三つの要素が同じ調子で反復され、空間全体に一定のリズムを与えていた。 この展示は「地底旅行」のようだと感じた。 地下深くに生まれた空洞を歩いているかのようで、空気には暗さと湿り気が含まれている。 そこで見上げる「ほぼ、空」は、地上の空とは異なり、このような感じだろう。 野田穫の建築画も、針葉樹の存在も、この地底的な感覚にしっくりと馴染む。 久しぶりに、別世界へ迷い込んだような体験を楽しむことができた。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh300/ *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh/detail.php?id=326 □東山詩織 ■東山詩織の作品は、「グリッドやパースを感じさせる幾何学的な画面構成」という紹介文のとおり、画面の奥行きと秩序がまず視覚を捉える。 どこかで見たような感覚が立ち上がるのは、フランス式庭園の平面幾何学にも似た、人工的な構造の美しさがあるからだろう。 さらに、荒川修作の作品がふと脳裏をよぎった。 数字や矢印が支配していた時代が廃墟となり、その上に柔らかな緑が生い茂る、そんな「新しい時代の風景」を東山が描いているようにも思える。 画面には「平和で牧歌的な風景」が広がり、幾何学的な構造と自然の生成が同居している。 作品群は、観る者の想像を大きく広げる力を持っている。 フラクタルのように反復しながら永遠へと伸びていく形態が、脳の奥を心地よく刺激する。 初めての画家であったが、名前は忘れることはないだろうと思わせる確かな印象が残っ...

■前田寛治、ポエジイとレアリスム

■作家:前田寛治,小島善太郎,木下孝則,里見勝蔵,佐伯祐三ほか ■東京ステーションギャラリー,2026.7.4-8.30 ■前田寛治の名といくつかの作品には触れていたものの、彼の活動期間が十年に満たないこと、そしてその全体像に初めて近づけたのが今回の展示会である。 「前田」を「まえた」と読むことを含めて、基本的な理解も輪郭を持つことができた。 展示は「絵は詩である」「パリ留学、写実への目覚め」「帰国後の活躍、実在感を求めて」「1930年協会、生命の写実」「如何に超越すべきか」の五章構成で、前田の画風の変遷と思想の深化を段階的に示している。 大正期、多くの画家が渡仏したが前田もその一人である。 滞在中の作品を追っていくと、画風が大きく変貌していく様が手に取るように分かる。 クールベからセザンヌ、さらにキュビスムを経て、レアリスムの追求へと向かう。 福本和夫の唯物史観からの影響も大きく、質感・量感・実在感への志向が次第に強まっていく。 その探究は帰国後の「1930年協会」に結実し、前田は新しい芸術の波を求め続けた。 二階の大展示室では、中央に壁を設けて空間を二分し、「パリ留学(後半)」の婦人像群と「帰国後の活躍(前半)」の裸婦・裸体群を対置している。 やや狭くなった空間が緊張感を生み、画家の思想が押し寄せてくるようだった。 部屋の中央に立ち、ゆっくり一回転すると、作品が流れるようにつながり、視線と身体が展示に導かれていく。 この鑑賞体験が何とも言えず心地よい。 「1930年協会」の章では、協会メンバーの作品が並び、彼らの活動を補足し厚みを与えていた。 終章「如何に超越すべきか」は早すぎる死が痛ましい。 すべてを見終えたとき、短い生涯に凝縮された前田寛治の画業が迫ってきて、満ち足りた観後感が静かに押し寄せてきた。 *美術館、 https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202607_maeda.html

■エットレ・ソットサス、魔法がはじまるときデザインは生まれる ■瀧口修造、書くことと描くこと

*下記の□2展示を観る. ■アーティゾン美術館,2026.6.23-10.4 □エットレ・ソットサス,魔法がはじまるときデザインは生まれる ■作家:エットレ・ソットサス,マルコ・ザニーニ,ミケーレ・デ・ルッキ,倉俣史郎 ■ブログを遡ると、2011年にデザインサイトで開催された「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」を訪れていたことがわかった。 あれからすでに15年、石橋財団は次の好機を慎重に見極めていたのだろうか。 今回の展示は当時の記憶を一度リセットするほど新鮮に映った。 珍しい写真を含め、作品数も過不足なく配置され、密度と呼吸のバランスがよい内容だった。 ソットサスの経歴をあらためて辿ると、戦後の混乱期を経て工業デザインへ接近し、インド旅行や米国西海岸での滞在、さらにはカタルーニャ放浪の旅が、彼の造形感覚に多層的な影響を与えていることがわかる。 個人的な記憶だが、タイプライターを購入しようとしていた頃、ちょうどオリベッティ「ヴァレンタイン」が発売された。 デザインは魅力的だったものの、あの赤色だけはどうしても受け入れられず、結局「レッテラ32」を選んだことを思い出す。 しかしその後、ソットサスの色彩感覚、スカッと抜けるようでいて、どこか揺るぎない安定感をもつカラフルな配列には驚かされ続けてきた。 今回の展示で「メンフィス」グループのメンバーに磯崎新の名を見つけたことは、長年の謎を解く鍵となった。 磯崎の「ティーム・ディズニー・ビルディング」(1991年)の実験的な形態と色彩はどこから来たのかと感じていたが、あの中央にそびえる円筒形と周囲の立方体の構造と色彩は、まさしく「トーテム」や「家具」の系譜に連なるものだと確信ができた。 「メンフィス」や「磯崎新」に加え、「鉛の時代」「スーパースタジオ」「アレン・ギンズバーグ」といった言葉が次々と過去を呼び起こす。 久しぶりに、目と脳が一気に覚醒するような展示であった。 *美術館、 https://www.artizon.museum/exhibition/detail/602 □瀧口修造、書くことと描くこと ■作家:パウル・クレー,マルセル・デュシャン,ジョアン・ミロ,岡鹿之助,堂本尚郎,荒川修作ほか ■正直に言えばかなり疲れる展示だった。 批評文や書籍の活字はどれも小さく、読む前から気力を削がれる。 瀧口が描...

■ベースゲート横浜関内 ■大井町トラックス

*今年3月に開業した2建築□を見学する. □ベースゲート横浜関内 ■設計・施工:鹿島建設,竹中工務店,事業:三井不動産,京浜急行ほか,管理:東急モールズデペロップメント他 ■2026.3.19開業 ■関内駅南口を降りると、33階建ての高層ビルが、5棟の低層建物に囲まれるように配置されている。 敷地全体は想像していたよりもコンパクトで、周辺の街並みに自然と溶け込んでいる印象を受けた。 奥に位置する高層の「タワー」棟の低層階には、没入型体験施設や健康センターが入居している。 オフィスエントランスは11階に設けられており、入居企業はまだ数社にとどまるようだ。 平日の昼間にもかかわらず静まり返っており、開業直後の<空気の余白>がそのまま残っている。 中央に建つ3階建ての「ザライブ」棟に入ると、横浜ベイスターズを前面に掲げた応援拠点のような雰囲気が漂う。 レストランやショップが並び、球団カラーが随所にあしらわれている。 横浜スタジアム側には、旧横浜市庁舎の外観を継承した8階建ての「ザレガシー」棟があり、星野温泉ホテルが入っている。 歴史的意匠と新しい商業空間が共存している点が興味深い。 これらの建物群は「バル街」と呼ばれる飲食店の連なりによってゆるやかに接続されている。 昼食時だったこともあり、多くのレストランが混雑していた。 街路のような連続性が生まれ、敷地の狭さを巧く利用している。 横浜スタジアムとはデッキで直結しているため、試合当日には一帯が横浜ベイスターズ一色に染まり、歴史や球場が絡み合う新しい関内の風景として立ち現れるのだろう。 *ベースゲート横浜関内、 https://www.basegate-yokohama-kannai.com/ □大井町トラックス ■設計:JR東日本建築設計,施工:竹中工務店,管理:JR東日本ビルディング,アトレ,日本ホテル他 ■2026.3.28開業 ■オフィス+ホテル+レジデンスを高層2棟で構成する、近年の都市開発の潮流を取り入れた建築群である。 先ほど見学した「ベースゲート横浜関内」と基本構造は共通しており、用途の複合化と高層化が標準化しつつあることを実感する。 JRの跡地を活用しているため、大井町駅から直結しておりアクセスの良さが際立つ。 低層階は人の動線が明快で、歩いていて迷いがない。 先日訪れた「高輪ゲート...

■杉本博司、絶滅写真

■作家:杉本博司 ■東京近代美術館,2026.6.16-9.13 ■杉本博司の「放電場」を凝視していると、無機から有機が立ち上がる瞬間が確かに感得される。 「海景」では静止した水平線近くの波がわずかに動き、そこに生命の痕跡が滲み出る。 「劇場」の白く輝く闇には、観客の不在にもかかわらずヒトの気配が沈殿している。 杉本作品に特有の「有機が立ち上がる瞬間」は、今回の展示でも確かに息づいていた。 しかし、会場ではほぼB0判?で統一された大判プリントが並び、写真を「独占して凝視する」ためのサイズではない。 むしろ絵画的なスケールで鑑賞することを求められているように感じた。 そのため、銀塩写真が本来持つ緊張感やリアリティが薄まり、あの独特の<気配>が迫ってこない。 杉本作品の核心が遠のいた印象を受けた。 さらにキャプションには作者自身の短歌(川柳に近い調子のものもある)が添えられている。 興味深い言葉ではあるが、言語が介在することで作品との距離が一段階遠くなる。 「けだもののみちきわめきていまのひと、ひとと言えどもいまもけだもの」「立ってみた腰は痛いし肩こるが、もろてをあげてやったぜ万歳」。 これらの言葉はユーモアと批評性を帯びているものの、写真の沈黙を破り、視線を作品から逸らしてしまう。 「絶滅写真」は、銀塩写真という技術の終焉と、自身の作家活動の終幕を見据えて浮上したタイトルだという。 杉本博司が長年追い続けてきた「無機から有機への気配」は、銀塩という物質性を伴う技法によってこそ成立する。 今回の展示はその終焉を示すと同時に、銀塩写真が持つ不可逆の魅力を改めて考えさせる場となった。 *美術館、 https://www.momat.go.jp/exhibitions/569

■ピカソmeetsポール・スミス、遊び心の冒険へ

■作家:パブロ・ピカソ,ポール・スミス ■国立新美術館,2026.6.10-9.21 ■英国人デザイナー、ポール・スミスが会場レイアウトを手がけた展示会だという。 かつて私も彼の鞄を使っていた。 黒を基調に、わずかに紫が差し色として入った控えめなデザインで、仕事にも使える上品な遊び心があった。 彼の服飾が「ひねりのあるクラシック」と評されるのは、今日の副題にある「遊び心」と深く通じている。 会場は十六の部屋で構成されており、その多くはポール・スミスらしい<捻り>が効いている。 時にその捻りが効きすぎて、ピカソそのものを見失いそうになる部屋すらある。 しかし、そのズレこそが面白い。 ピカソの遊び心と、スミスの遊び心が、時には競い合い、時には共鳴し合い、思わぬ視点を生み出していた。 この二人を組み合わせるという発想は、いったい誰が思いついたのだろう。 ピカソを<展示する>のではなく、ピカソと<遊ぶ>ための空間をつくり上げた企画展だった。 *美術館、 https://art.nikkei.com/picasso_ps26/

■高輪ゲートウェイシティ

■設計&建設:品川開発プロジェクト設計共同企業体,デベロッパー&所有者:東日本旅客鉄道 ■開業,2026.3.28(第二期),2025.3.27(第一期) ■1年前に 見学した際 には、「リンクピラー1」の南棟と北棟が完成していたものの、入居している店は数件にとどまっていた。 今回は「レジデンス(RESIDENCE TOWER)」棟を除き、「MON(The Museum of Narratives)」棟と「リンクピラー2(THE LINKPILLAR 2)」棟を中心に歩いてみた。 「MON」棟の外観は、NYのグッゲンハイム美術館を思わせる渦巻状の構造で、周囲には緑が複雑に配置されている。 植栽の管理は相当に手間がかかりそうだ。 内部に入ると、何も置かれていない床が階段やエスカレーターでつながり、視界が抜ける複雑な空間が広がっている。 ショップやレストランもあるが、存在感は控えめだ。 劇場には入れなかったものの、全体として来訪者が自由に滞在できる<余白>を重視した空間設計に感じられる。 靴を脱いで座れる畳の床や、屋上の足湯、小さな鳥居など、用途の幅が広いのも印象的だった。 「リンクピラー2」棟に入ると、広々としたレストラン空間が広がる。 通路と座席の境界が曖昧で、硬質で暗めのトーンで統一された内装は、落ち着いて食事を楽しむには向いているかもしれない。 ついでに「リンクピラー1」の南棟と北棟も回った。 こちらもゆとりある構成で、店舗ごとの買い物がしやすい。 これほど余裕をもった商業空間は珍しく、歩いているだけで気持ちが良い。 4棟を歩き回って気づいたのは、外壁周辺に自販機やコンビニが見当たらないことだ。 ここでは<あれば便利>という発想をあえて手放し、空間そのものの質を優先しているように見える。 それが、今日の見学が心地よい時間になった理由のひとつかもしれない。 *高輪ゲートウェイシティ、 https://www.takanawagateway-city.com/

■Don't think.Feel. ■W・ユージン・スミスとニューヨーク、ロフトの時代 ■養老孟子と小檜山賢二の虫展

*下記□の3展を観る. ■東京都写真美術館,2026.3.17-9.23 □Don't think.Feel. ■作家:田村栄,北井一夫,影山光洋,川内倫子,小林のりお他 ■タイトル「考えるな、感じろ!」は映画「燃えよドラゴン」でブルース・リーが放った台詞だという。 しかし、写真の前に立つと、私はどうしても<感じる>より先に<読んで>しまう。 過去の記憶が、写真の表面から立ち上がってくるのだ。 田村栄「多摩川の鳥」の前では、川辺で育った子ども時代がよみがえる。 川原で雲雀が急降下した場所を探し当て巣を見つけたこと、水中で見たヤマメの鱗の煌めきが美しかったことを。 北井一夫「こたつ」では、炬燵を囲んだ近しい人々の顔が浮かび、影山光洋「家族の肖像」の前では、両親の時代が蘇る。 写真の前で「考える」ことは本来少ない。 むしろ「読むな、感じろ!」と言いたくなる。 しかし、感じるだけでは写真の意味が半減してしまう気もする。 写真は、記憶と感覚のあいだで揺れ動く媒介なのだ。 *美術館、 https://topmuseum.jp/exhibition/5415/ □W・ユージン・スミスとニューヨーク,ロフトの時代 ■作家:三木淳,ウィリアム・ユージン・スミス ■ユージン・スミスは美術館でしばしば出会う作家だが、「ロフト時代」に焦点を当てた展示は珍しい。 今回はその時期を軸に、彼の全体像を見渡せる構成となっていた。 第1章「偉大な都市」では「ピッツバーグ」から30点を抜粋。 続く第2章が「ロフトの時代」で、当時の空気を再現した展示空間にはジャズの音が流れ、写真と音が混ざり合う。 第3章「Let Truth Be the Prejudice」は、1971年の回顧展をほぼ再現したもので、80点余りが展示されていた。 終章は「水俣、報道と芸術の融合」。 そして1階ホールでは映画「MINAMATA,ミナマタ」(2020年)と「ジャズ・ロフト」(2015年)が上映され、写真家の軌跡を多面的に辿ることができる。 「客観なんてない、主観しかない」。 彼の言葉は重い。 「写真は平気で嘘をつく」。 だからこそ、ジャーナリストとしての責任の深さが胸に迫る。 *美術館、 https://topmuseum.jp/exhibition/5095/ □養老孟子と小檜山賢二の虫展 ■作家:養老孟子...

■ロン・ミュエク

■作家:ロン・ミュエク ■森美術館,2026.4.29-9.23 ■入館して知ったのだが、ロン・ミュエクはプラスチック素材などを成型加工して作品を創り出す、いわゆる ミクストメディア を得意とする作家らしい。 人物や動物を驚くほど正確かつ精密に仕上げており、まずその技術力に目を奪われる。 なかでも、拡大された人物像は圧倒的な迫力を放つ。 近づくほどに生々しさが増し、こちらとの距離が揺らぎ始める。 親密さが立ち上がる一方で、どこか遠ざけたい気分にもなる。 まるで生身の他者と向き合うときのように、心理的距離が一定に保てない。 しかし、その身体的リアリティとは裏腹に、作品から芸術的な感動が湧き上がってこない。 骸骨の墓場である 「マス」、男の顔を象った「マスク」、暗闇に沈む「ダーク・プレイス」も同様で、どこかテーマパークで<面白いものを見た>という感覚に近い。 作品ごとの解説を読むと、そのテーマパーク的な驚きから、観客を美術館的な感動へと連れ戻そうとしているように思えた。 しかし近年は、美術館とテーマパークの境界そのものが低くなっているのではないか。 非日常体験を提供するという点では両者はすでに地続きであり、その両方を見据えて制作しているのが、まさにロン・ミュエクなのかもしれない。 *美術館、 https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/ronmueck/index.html

■アンドリュー・ワイエス展

■作家:アンドリュー・ワイエス,所蔵:丸沼芸術の森ほか ■東京都美術館,2026.4.28-7.5 ■1974年、国立近代美術館で開催された「アンドリュー・ワイエス展」の衝撃はいまも忘れがたい。 その記憶があるからこそ、東京都美術館での今回の展覧会にも胸が高鳴った。 鑑賞を進めるうちに、今回はとりわけ第3章「オルソン・ハウス」に焦点を当てた構成であることが分かってくる。 「丸沼芸術の森」所蔵の水彩画や鉛筆画がずらりと並び、さらにオルソン・ハウスの建築図面まで展示されているのが興味深い。 会場には「境界の深淵に迫る」というテーマが掲げられていた。 ワイエスは屋根や壁、ドアや窓といった建物の境界を丹念に描き込み、そこに人の気配を重ねていく。 水彩・テンペラ・ドライブラッシュ水彩を自在に操る筆致によって、建物そのものがワイエス的な<境界>として静かに立ち上がってくる。 ハウスに暮らした姉弟の姿も描かれているが、作品数は多くない。 それでも人物を描かずとも、空間には濃密な気配が満ちている。 なぜワイエスの境界は「深淵」なのか。 そこには<喪>の気配が漂っているからだ。 ここでいう喪とは、すでに訪れた死ではなく、姉弟がこれから迎えるであろう「人間の定めとしての死」の影である。 その予兆が画面に沈殿し、ワイエス作品特有の衝撃力を生み出している。 テンペラによる人物画は「クリスティーナ・オルソン」(1947年)の一枚のみで、やや物足りなさも残った。 ハウスから離れた作品としては「自画像」(1945年)など数点が展示されていた。 久しぶりにワイエスの世界に浸ることができたが、焦点を絞った展示構成であったため、感動もまた限定的なものとなった。 単眼鏡は持っていた方がよい。 *東京都美術館開館100周年記念 *美術館、 https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_wyeth.html

■チュルリョーニス展、内なる星図

■作家:ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス,所蔵:国立M.K.チュルリョーニス美術館 ■国立西洋美術館,2026.3.28-6.14 ■会場で上映されていたチュルリョーニスの紹介映像を眺めながら、リトアニアと聞いて真っ先に思い浮かぶのが映画作家ジョナス・メカスしかいないことに気づく。 1970年代の作品はいまも記憶に残っているが、それほどにリトアニアは遠い国として私の中にあった。 チュルリョーニスという名は今回が初めてで、しかも彼は画家であると同時に音楽家でもあったという。 作品のタイトルに音楽用語が付されているのもそのためだろう。 そういえば会場にも彼の音楽が流れていた。 今こうして美術館のウェブに掲載されていた彼の作曲集を聴きながら、この文章を書いている。 特に心に残ったのは「星のソナタ」(1908年)と「おとぎ話」(1907年)の数枚である。 そして「祭壇」(1909年)の前では、ふと画家・有元利夫の名が頭をよぎった。 チュルリョーニスと同じく、絵画の背後に音楽的な気配を感じさせる作家である。 絵画と音楽の関係は興味深い。 個々の作品というより、画家が持つ固有の画風から音楽の形や質が立ち上がってくるからだ。 作家ごとに<画風=音風景>が成立する。 この式こそが、本展のタイトルにある「内なる星図」を指しているのかもしれない。 さらに、ロシア帝国支配下のリトアニアに根差した個性が、絵画にも音楽にも確かに感じられる。 展示の最後に置かれていた「レックス(王)」(1909年)は、その歴史的背景が最も強く押し出された作品だった。 彼の得意とする鳥瞰的で豊かな風景とは異なり、王の暗い姿が重く沈む。 政治状況が彼の精神を追い詰めた一因であったとしても不思議ではない。 ともあれ、今日は遠いと思っていたリトアニアに一歩近づけたようで、彼の画風が持つような静かな喜びが残った。 *美術館、 https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026ciurlionis.html

■森英恵、ヴァイタル・タイプ

■作家:森英恵,奈良原一高,田中一光,横尾忠則,佐藤しのぶ,小津安二郎ほか ■国立新美術館,2026.4.15-7.6 ■世界を相手に活躍してきた森英恵という存在の「謎」が一つ解けた気がした。 若い頃に手がけた映画衣装の仕事を通じ、監督や俳優との関わりの中で、社会の仕組みや人間関係の表裏を徹底的に叩き込まれたのだろう。 そこで培われた経験が、もともとのヴァイタル・タイプの気質に磨きをかけ、〈マダム・バタフライ〉の悲劇性から抜け出した<モンシロチョウ>として、世界へ羽ばたく原動力になったのだと感じた。 さらに、彼女が世界を相手にできた理由の二つ目も見えてくる。 ファッションメディアへの積極的な進出である。 そこには芸術家とのコラボレーションも含まれる。 田中一光や横尾忠則の作品はこれまで数多く見てきたが、森英恵の名と結びつけて考えたことはなかった。 遡れば、小津安二郎から受けた影響もその系譜にある。 そういえば、岡田茉莉子の衣装に感じていた「小津的だが何かが違う」という印象が、いま森英恵へとつながっていく驚きがある。 つい先ほど観てきた「 アントニー・ガウディ 」では、「すべての芸術は建築に通じる」と語られていた。 しかし森英恵のファッションは、必ずしもその枠に収まらない。 おそらく〈衣・食・住〉という人間生活の三要素が、互いに対等であるからだろう。 今日はさらに「 スープはいのち 」も観たので、〈衣・食・住〉の三つの美術展が偶然にも揃ったことになる。 思いがけない重なりによって、楽しさが三倍に膨らんだ一日だった。 *美術館、 https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/hanaemori/

■スープはいのち ■ガウディ、未来をひらく窓

*下記□の2展示を観る. ■2121デザインサイト,2026.3.27-8.9 □スープはいのち ■ディレクター:遠山夏未 ■馴染みのスープといえば、やはり味噌汁だろう。 ほぼ毎日口にし、具をたっぷり入れるので「飲む」というより「食べる」に近い。 会場では、旅先で出会った多様なスープが紹介され、世界各地の名物スープの写真も並ぶ。 米から作る「おかゆ」のレシピらしき映像も流れていた。 水で煮れば、あらゆる食材はスープになる。 だからこそ、「スープは包む、いのちを満たす、はじまりの衣食住」というサブタイトルは、一見すると焦点が定まりにくい。 しかし、スープが生きるための基本であり、誰にとっても身近な<はじまり>の食であることを思えば、その曖昧さはむしろ必然なのかもしれない。 ディレクターが語るように、私たちは生まれる前から「羊水」というスープに包まれていた。 展示は、その原初的な感覚を静かに呼び覚ましていたように思う。 *美術館、 https://www.2121designsight.jp/program/soup/ □ガウディ,未来をひらく窓 ■主催:YKK AP株式会社 ■窓メーカーのYKK APが、ガウディ没後100年を記念して「建築家アントニ・ガウディの創造的で革新的な窓を多角的に探究する」プロジェクトを立ち上げた。 その名称が「ガウディ:未来をひらく窓」で、バルセロナのパラウ・グエル館で展示が予定されているという。 今回の展示は、そのサテライト展として2121デザインサイトで開催されている。 ガウディ建築の窓やドアに焦点を当てた展示は、改めてその造形の豊かさを感じさせる。 多くは<前後に動く>構造を持ち、曲線や立体的な装飾が空間に独特のリズムを与えている。 ガウディの建築は、時を経るほど魅力が増していくように思えるのが不思議だ。 同時に、日本建築の板戸・襖・障子といった<左右に動く>構造が対照的でありながら新鮮に感じられた。 異なる文化が生み出した開閉の仕組みを比較することで、窓という存在が単なる機能ではなく、生活や思想を映し出す装置であることに気づかされる展示だった。 *美術館、 https://www.2121designsight.jp/gallery3/gaudi_window/ *YKK AP、 https://www.ykkapglo...

■拡大するジュルレアリスム 日常を変える、世界を変える。 ■幻想の景色と不思議ないきものたち ■大上巧真 OueTakuma

*以下□の3展示を観る. ■東京オペラシティーアートギャラリー,2026.4.16-6.24 □拡大するシュルレアリスム 日常を変える,世界を変える ■作家:マルセル・デュシャン,マン・レイ,フランシス・ピカビア,サルバドール・ダリ,アンドレ・ブルトン他 ■日本各地の美術館から作品を集めた展示会である。 過去に観た作品も多く、新鮮味という点ではやや欠けるものの、シュルレアリスム入門としての性格が強く感じられた。 第一章「オブジェ」の解説には、シュルレアリスムの目指す方向性が示されていた。 そこでは「客観と超現実の関係」が語られ、主体の意識を客体へと移し、客体そのものが立ち現れる瞬間を待つという態度が強調されている。 客体が超現実的に変容していく過程を作品化する。 つまり、シュルレアリスムとは幻想や夢を初めから語るのではなく、客観を徹底して扱うことで超現実へ到達しようとする運動なのだ。 展示はその後、「写真」「絵画」「広告」「ファッション」「インテリア」へと続いていく。 二次元から三次元へと領域が広がり、客体の“本丸”へ向かっていくようにも見えた。 今日は第一章の解説に沿って作品を鑑賞したが、これは作家の制作過程を追体験する行為も含まれるので、なかなかに疲れる作業でもあった。 それでも、久しぶりのシュルレアリスム展を十分に楽しむことができた。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh297/ □幻想の景色と不思議ないきものたち,収蔵品展086 寺田コレクションより ■作家:落田洋子,川口起美雄,望月通陽,池田龍雄ほか ■1階の企画展を観終え、2階の収蔵品展へ向かった。 どちらも幻想や夢を主題とした作品が多いが、2階に並ぶ作品は1階とは対照的に、作家の主観から直接生まれた世界が強く前面に出ている。 これは日本独自の流れなのか、それとも時代的な傾向なのか? おそらく前者だろう。 チラシには古今和歌集の一首が引用されていた。 「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ」。 夢と現実が主客分離しないまま境界で溶け合う、この感覚こそ日本的な幻想の源泉なのだと感じた。 企画展と収蔵品展を続けて観ることで、客観的に構成された幻想と、主観から立ち上がる幻想という対照が際立ち、その組み合わせが特に興味深かった。 *美...