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■Don't think.Feel. ■W.ユージン・スミスとニューヨーク、ロフトの時代 ■養老孟子と小檜山賢二の虫展

*下記□の3展を観る. ■東京都写真美術館,2026.3.17-9.23 □Don't think.Feel. ■作家:田村栄,北井一夫,影山光洋,川内倫子,小林のりお他 ■タイトル「考えるな、感じろ!」は映画「燃えよドラゴン」でブルース・リーが放った台詞だという。 しかし、写真の前に立つと、私はどうしても<感じる>より先に<読んで>しまう。 過去の記憶が、写真の表面から立ち上がってくるのだ。 田村栄「多摩川の鳥」の前では、川辺で育った子ども時代がよみがえる。 川原で雲雀が急降下した場所を探し当て巣を見つけたこと、水中で見たヤマメの鱗の煌めきが美しかったことを。 北井一夫「こたつ」では、炬燵を囲んだ近しい人々の顔が浮かび、影山光洋「家族の肖像」の前では、両親の時代が蘇る。 写真の前で「考える」ことは本来少ない。 むしろ「読むな、感じろ!」と言いたくなる。 しかし、感じるだけでは写真の意味が半減してしまう気もする。 写真は、記憶と感覚のあいだで揺れ動く媒介なのだ。 *美術館、 https://topmuseum.jp/exhibition/5415/ □W.ユージン・スミスとニューヨーク,ロフトの時代 ■作家:三木淳,ウィリアム・ユージン・スミス ■ユージン・スミスは美術館でしばしば出会う作家だが、「ロフト時代」に焦点を当てた展示は珍しい。 今回はその時期を軸に、彼の全体像を見渡せる構成となっていた。 第1章「偉大な都市」では「ピッツバーグ」から30点を抜粋。 続く第2章が「ロフトの時代」で、当時の空気を再現した展示空間にはジャズの音が流れ、写真と音が混ざり合う。 第3章「Let Truth Be the Prejudice」は、1971年の回顧展をほぼ再現したもので、80点余りが展示されていた。 終章は「水俣、報道と芸術の融合」。 そして1階ホールでは映画「MINAMATA,ミナマタ」(2020年)と「ジャズ・ロフト」(2015年)が上映され、写真家の軌跡を多面的に辿ることができる。 「客観なんてない、主観しかない」。 彼の言葉は重い。 「写真は平気で嘘をつく」。 だからこそ、ジャーナリストとしての責任の深さが胸に迫る。 *美術館、 https://topmuseum.jp/exhibition/5095/ □養老孟子と小檜山賢二の虫展 ■作家:養老孟子...

■ロン・ミュエク

■作家:ロン・ミュエク ■森美術館,2026.4.29-9.23 ■入館して知ったのだが、ロン・ミュエクはプラスチック素材などを成型加工して作品を創り出す、いわゆる ミクストメディア を得意とする作家らしい。 人物や動物を驚くほど正確かつ精密に仕上げており、まずその技術力に目を奪われる。 なかでも、拡大された人物像は圧倒的な迫力を放つ。 近づくほどに生々しさが増し、こちらとの距離が揺らぎ始める。 親密さが立ち上がる一方で、どこか遠ざけたい気分にもなる。 まるで生身の他者と向き合うときのように、心理的距離が一定に保てない。 しかし、その身体的リアリティとは裏腹に、作品から芸術的な感動が湧き上がってこない。 骸骨の墓場である 「マス」、男の顔を象った「マスク」、暗闇に沈む「ダーク・プレイス」も同様で、どこかテーマパークで<面白いものを見た>という感覚に近い。 作品ごとの解説を読むと、そのテーマパーク的な驚きから、観客を美術館的な感動へと連れ戻そうとしているように思えた。 しかし近年は、美術館とテーマパークの境界そのものが低くなっているのではないか。 非日常体験を提供するという点では両者はすでに地続きであり、その両方を見据えて制作しているのが、まさにロン・ミュエクなのかもしれない。 *美術館、 https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/ronmueck/index.html

■アンドリュー・ワイエス展

■作家:アンドリュー・ワイエス,所蔵:丸沼芸術の森ほか ■東京都美術館,2026.4.28-7.5 ■1974年、国立近代美術館で開催された「アンドリュー・ワイエス展」の衝撃はいまも忘れがたい。 その記憶があるからこそ、東京都美術館での今回の展覧会にも胸が高鳴った。 鑑賞を進めるうちに、今回はとりわけ第3章「オルソン・ハウス」に焦点を当てた構成であることが分かってくる。 「丸沼芸術の森」所蔵の水彩画や鉛筆画がずらりと並び、さらにオルソン・ハウスの建築図面まで展示されているのが興味深い。 会場には「境界の深淵に迫る」というテーマが掲げられていた。 ワイエスは屋根や壁、ドアや窓といった建物の境界を丹念に描き込み、そこに人の気配を重ねていく。 水彩・テンペラ・ドライブラッシュ水彩を自在に操る筆致によって、建物そのものがワイエス的な<境界>として静かに立ち上がってくる。 ハウスに暮らした姉弟の姿も描かれているが、作品数は多くない。 それでも人物を描かずとも、空間には濃密な気配が満ちている。 なぜワイエスの境界は「深淵」なのか。 そこには<喪>の気配が漂っているからだ。 ここでいう喪とは、すでに訪れた死ではなく、姉弟がこれから迎えるであろう「人間の定めとしての死」の影である。 その予兆が画面に沈殿し、ワイエス作品特有の衝撃力を生み出している。 テンペラによる人物画は「クリスティーナ・オルソン」(1947年)の一枚のみで、やや物足りなさも残った。 ハウスから離れた作品としては「自画像」(1945年)など数点が展示されていた。 久しぶりにワイエスの世界に浸ることができたが、焦点を絞った展示構成であったため、感動もまた限定的なものとなった。 単眼鏡は持っていた方がよい。 *東京都美術館開館100周年記念 *美術館、 https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_wyeth.html

■チュルリョーニス展、内なる星図

■作家:ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス,所蔵:国立M.K.チュルリョーニス美術館 ■国立西洋美術館,2026.3.28-6.14 ■会場で上映されていたチュルリョーニスの紹介映像を眺めながら、リトアニアと聞いて真っ先に思い浮かぶのが映画作家ジョナス・メカスしかいないことに気づく。 1970年代の作品はいまも記憶に残っているが、それほどにリトアニアは遠い国として私の中にあった。 チュルリョーニスという名は今回が初めてで、しかも彼は画家であると同時に音楽家でもあったという。 作品のタイトルに音楽用語が付されているのもそのためだろう。 そういえば会場にも彼の音楽が流れていた。 今こうして美術館のウェブに掲載されていた彼の作曲集を聴きながら、この文章を書いている。 特に心に残ったのは「星のソナタ」(1908年)と「おとぎ話」(1907年)の数枚である。 そして「祭壇」(1909年)の前では、ふと画家・有元利夫の名が頭をよぎった。 チュルリョーニスと同じく、絵画の背後に音楽的な気配を感じさせる作家である。 絵画と音楽の関係は興味深い。 個々の作品というより、画家が持つ固有の画風から音楽の形や質が立ち上がってくるからだ。 作家ごとに<画風=音風景>が成立する。 この式こそが、本展のタイトルにある「内なる星図」を指しているのかもしれない。 さらに、ロシア帝国支配下のリトアニアに根差した個性が、絵画にも音楽にも確かに感じられる。 展示の最後に置かれていた「レックス(王)」(1909年)は、その歴史的背景が最も強く押し出された作品だった。 彼の得意とする鳥瞰的で豊かな風景とは異なり、王の暗い姿が重く沈む。 政治状況が彼の精神を追い詰めた一因であったとしても不思議ではない。 ともあれ、今日は遠いと思っていたリトアニアに一歩近づけたようで、彼の画風が持つような静かな喜びが残った。 *美術館、 https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026ciurlionis.html

■森英恵、ヴァイタル・タイプ

■作家:森英恵,奈良原一高,田中一光,横尾忠則,佐藤しのぶ,小津安二郎ほか ■国立新美術館,2026.4.15-7.6 ■世界を相手に活躍してきた森英恵という存在の「謎」が一つ解けた気がした。 若い頃に手がけた映画衣装の仕事を通じ、監督や俳優との関わりの中で、社会の仕組みや人間関係の表裏を徹底的に叩き込まれたのだろう。 そこで培われた経験が、もともとのヴァイタル・タイプの気質に磨きをかけ、〈マダム・バタフライ〉の悲劇性から抜け出した<モンシロチョウ>として、世界へ羽ばたく原動力になったのだと感じた。 さらに、彼女が世界を相手にできた理由の二つ目も見えてくる。 ファッションメディアへの積極的な進出である。 そこには芸術家とのコラボレーションも含まれる。 田中一光や横尾忠則の作品はこれまで数多く見てきたが、森英恵の名と結びつけて考えたことはなかった。 遡れば、小津安二郎から受けた影響もその系譜にある。 そういえば、岡田茉莉子の衣装に感じていた「小津的だが何かが違う」という印象が、いま森英恵へとつながっていく驚きがある。 つい先ほど観てきた「 アントニー・ガウディ 」では、「すべての芸術は建築に通じる」と語られていた。 しかし森英恵のファッションは、必ずしもその枠に収まらない。 おそらく〈衣・食・住〉という人間生活の三要素が、互いに対等であるからだろう。 今日はさらに「 スープはいのち 」も観たので、〈衣・食・住〉の三つの美術展が偶然にも揃ったことになる。 思いがけない重なりによって、楽しさが三倍に膨らんだ一日だった。 *美術館、 https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/hanaemori/

■スープはいのち ■ガウディ、未来をひらく窓

*下記□の2展示を観る. ■2121デザインサイト,2026.3.27-8.9 □スープはいのち ■ディレクター:遠山夏未 ■馴染みのスープといえば、やはり味噌汁だろう。 ほぼ毎日口にし、具をたっぷり入れるので「飲む」というより「食べる」に近い。 会場では、旅先で出会った多様なスープが紹介され、世界各地の名物スープの写真も並ぶ。 米から作る「おかゆ」のレシピらしき映像も流れていた。 水で煮れば、あらゆる食材はスープになる。 だからこそ、「スープは包む、いのちを満たす、はじまりの衣食住」というサブタイトルは、一見すると焦点が定まりにくい。 しかし、スープが生きるための基本であり、誰にとっても身近な<はじまり>の食であることを思えば、その曖昧さはむしろ必然なのかもしれない。 ディレクターが語るように、私たちは生まれる前から「羊水」というスープに包まれていた。 展示は、その原初的な感覚を静かに呼び覚ましていたように思う。 *美術館、 https://www.2121designsight.jp/program/soup/ □ガウディ,未来をひらく窓 ■主催:YKK AP株式会社 ■窓メーカーのYKK APが、ガウディ没後100年を記念して「建築家アントニ・ガウディの創造的で革新的な窓を多角的に探究する」プロジェクトを立ち上げた。 その名称が「ガウディ:未来をひらく窓」で、バルセロナのパラウ・グエル館で展示が予定されているという。 今回の展示は、そのサテライト展として2121デザインサイトで開催されている。 ガウディ建築の窓やドアに焦点を当てた展示は、改めてその造形の豊かさを感じさせる。 多くは<前後に動く>構造を持ち、曲線や立体的な装飾が空間に独特のリズムを与えている。 ガウディの建築は、時を経るほど魅力が増していくように思えるのが不思議だ。 同時に、日本建築の板戸・襖・障子といった<左右に動く>構造が対照的でありながら新鮮に感じられた。 異なる文化が生み出した開閉の仕組みを比較することで、窓という存在が単なる機能ではなく、生活や思想を映し出す装置であることに気づかされる展示だった。 *美術館、 https://www.2121designsight.jp/gallery3/gaudi_window/ *YKK AP、 https://www.ykkapglo...

■拡大するジュルレアリスム 日常を変える、世界を変える。 ■幻想の景色と不思議ないきものたち ■大上巧真 OueTakuma

*以下□の3展示を観る. ■東京オペラシティーアートギャラリー,2026.4.16-6.24 □拡大するシュルレアリスム 日常を変える,世界を変える ■作家:マルセル・デュシャン,マン・レイ,フランシス・ピカビア,サルバドール・ダリ,アンドレ・ブルトン他 ■日本各地の美術館から作品を集めた展示会である。 過去に観た作品も多く、新鮮味という点ではやや欠けるものの、シュルレアリスム入門としての性格が強く感じられた。 第一章「オブジェ」の解説には、シュルレアリスムの目指す方向性が示されていた。 そこでは「客観と超現実の関係」が語られ、主体の意識を客体へと移し、客体そのものが立ち現れる瞬間を待つという態度が強調されている。 客体が超現実的に変容していく過程を作品化する。 つまり、シュルレアリスムとは幻想や夢を初めから語るのではなく、客観を徹底して扱うことで超現実へ到達しようとする運動なのだ。 展示はその後、「写真」「絵画」「広告」「ファッション」「インテリア」へと続いていく。 二次元から三次元へと領域が広がり、客体の“本丸”へ向かっていくようにも見えた。 今日は第一章の解説に沿って作品を鑑賞したが、これは作家の制作過程を追体験する行為も含まれるので、なかなかに疲れる作業でもあった。 それでも、久しぶりのシュルレアリスム展を十分に楽しむことができた。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh297/ □幻想の景色と不思議ないきものたち,収蔵品展086 寺田コレクションより ■作家:落田洋子,川口起美雄,望月通陽,池田龍雄ほか ■1階の企画展を観終え、2階の収蔵品展へ向かった。 どちらも幻想や夢を主題とした作品が多いが、2階に並ぶ作品は1階とは対照的に、作家の主観から直接生まれた世界が強く前面に出ている。 これは日本独自の流れなのか、それとも時代的な傾向なのか? おそらく前者だろう。 チラシには古今和歌集の一首が引用されていた。 「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ」。 夢と現実が主客分離しないまま境界で溶け合う、この感覚こそ日本的な幻想の源泉なのだと感じた。 企画展と収蔵品展を続けて観ることで、客観的に構成された幻想と、主観から立ち上がる幻想という対照が際立ち、その組み合わせが特に興味深かった。 *美...

■ウジェーヌ・ブーダン展 瞬間の美学、光の探求

■作家:ウジェーヌ・ブーダン,エミール・ヴェルニエ,ロイス・デルテイユ ■SOMPO美術館,2026.4.11-6.21 ■日本では30年ぶりとなるブーダンの回顧展だという。 印象派展では脇役として扱われがちなブーダンだが、今回は100点もの作品をまとめて鑑賞できる貴重な機会となった。 ブーダンの絵画は、空と海が画面の大半を占める。 まさにコローが評した「空の王者」という言葉が腑に落ちる。 派手さはないが、眺めているうちに心が静かにほどけていくような癒しがある。 彼の描く雲や波は、自然の変化を忠実に写し取っているようだ。 今回の展示で知ったのだが、船乗りの父の影響もあり、ブーダンは「天候を読む漁師の目」を持っていたという。 だからこそ、印象派の画家たちのように色彩に溶け込ませるのではなく、雲や波が現れては消えていく、その一瞬の相貌を確かに捉えている。 ボードレールが述べた「気象学的な美しさ」という表現が、これほど似合う画家も珍しい。 海景から陸景へ移ると、画風は一気にバルビゾン派へ近づく。 トロワイヨンの影響が強いと解説されていたが、そこにコロー風の柔らかなタッチも感じられる。 後半になると、ヴェネツィアの建物の壁には雲の質感が塗り込められ、牛の量感には雲を固めたような重さが宿っていく。 湖や池の水面は不思議なほど静まり返っている。 陸では、彼の“天候を読む力”が対象物に付着しているかのようだが、モノとして力が立ち上がってこない。 やはりブーダンは、何もないようでいて無限の変化が潜む空と海にこそ帰るべき画家なのだと、改めて感じさせられた。 *美術館、 https://www.sompo-museum.org/exhibitions/#now

■デザインの先生 Learning from Design Maestros

■作家:ブルーノ・ムナーリ,マックス・ビル,オトル・アイヒャー,ディーター・ラムス,アッキレ・カスティリオーニ,エンツォ・マーリ ■2121デザインサイト,2025.11.21-26.3.8 ■今日は開催最終日のため混雑を覚悟していたが思ったほどではなかった。 上野の美術館とは客層の異なることが影響しているのかもしれない。 本展は6人のデザイナーに焦点を当てた構成になっている。 (上記作家欄の)前半の4人がドイツ系、後の2人はイタリア系に分かれており、このブログの過去に触れていたブルーノ・ムナーリとマックス・ビル以外は私にとって馴染みがない。 ムナーリとビルはデザインにとどまらず美術全般に活動を広げているため、出会う機会が多いのだろう。 イタリア系の二人は、よりプロダクト寄りのデザイナーと言える。 対象が具体的であるためか、二人の言葉はどこか饒舌に響く。 「興味がないなら忘れなさい」(  アッキレ・ カスティリオーニ)、「量産現場での繰り返し作業は職人も思考停止に陥る」(エンツォ・マーリ)。 マーリは無印良品との関係もあるらしく、過剰な資本主義から距離を置くというMUJI思想にも通じるものを感じた。  同じくプロダクトデザイナーであるドイツ系のディーター・ラムスは言葉の選び方にも秩序がある。 ブラウン社で数多くの機能主義的製品生み出した彼の「良いデザイン10箇条」は印象に残った。 良いデザインは・・、「革新的である」「実用的である」「美しい」「分かりやすい」「主張しない」「誠実である」「長持ちする」「細部まで完璧」「環境に優しい」「簡素」である。 商品の基本原則としても十分通用する内容だ。 会場を後にすると、早くも6人の違いが曖昧になっていることに気づいた。 絵画や彫刻のように作家の個性が強く出る分野とは異なり、デザインは「使う人のため」という共通目的に向かうので、自ずと似た方向へ収束していくのかもしれない。 *美術館、 https://www.2121designsight.jp/program/design_maestros/

■YBA&BEYOND、世界を変えた90s英国アート

■作家:フランシス・ベーコン,ダミアン・ハースト,デレク・ジャーマン,スティーヴ・マックイーン,サイモン・パターソン他 ■国立新美術館,2026.2.11-5.11 ■1980年代後半から2000年頃までに製作された英国美術に焦点を当てた展示会である。 1988年、作家ダミアン・ハーストが企画した「フリーズ」展に集まった作家たちは、YBA、つまりヤング・ブリティッシュ・アーティストと呼ばれるようになった。 会場に入ると、まずフランシス・ベーコン「トリップテック(三幅対)」(1988年)が目に飛び込み、続いてダミアン・ハースト「後天的な回避不能」(1991年)が現れる。 しかし、独自の表現を追求する作家たちの作品も並び、最初は全体像がつかみにく印象を受けた。 「ハンズワースの歌」(1986年)のドキュメンタリー映像を観た後、これら三作品を通して展示の主題が徐々に見えてきたように感じられた。 英国の身体・社会・歴史が世紀末に向けて溶解し始めていたのだ。 そこには英国特有の植民地主義の影も含まれるだろう。 この溶解は今も続いていて先が見えない。 AIやドローン兵器といった劇的な技術変化を取り込みながら、このまま21世紀は進んでいくのかもしれない。 映像作品では「ハンズワースの歌」のほか、トレイシー・エミン「なぜ私はダンサーにならなかったのか」(1995年)、スティーヴ・マックイーン「熊」(1993年)、スタバ・ビスワス「ミッキー・ベイカーの試練と苦労」(1997年)、マーク・ウォリンジャー「王国への入口」(2000年)などを観ることができた。 エミンは赤裸々な性差別を語り、ビスワスは階級差別を語る。 「ジャマイカでは肌の色の濃淡で階級と教育程度が分かってしまう。 それを私はいつも気にしていた・・」。 ・・。 ウォリンジャーは空港の到着ゲートに注目するが、そこに映るのは日常的に見慣れた会社員ばかりで、狙いは理解できるものの強い印象は残らなかった。 それよりも「ハンズワースの歌」に映る英国の港へ到着する移民船の乗客たち、安っぽい背広にネクタイを締めた人々の姿に衝撃を受けた。 彼らの背伸びをした正装で到着ゲートを通る姿に・・。 これまで「世紀末」といえば19世紀末を指すことが多かったが、ようやく20世紀末を描くことができる時代になってきたと感じられた。 英国以外の国...

■アルフレド・ジャー、あなたと私そして世界のすべての人たち ■寺田コレクション・ハイライト ■岩崎泰波

*下記□の3展を観る. ■東京オペラシティアートギャラリー,2026.1.21-3.29 □アルフレド・ジャー ■アルフレッド・ジャーの作品を見るのは初めてだったが、会場に入っても暫くは展示テーマが掴めなかった。 しかし配布された資料を読むことで状況が理解できた。 とはいえ、その資料は場内で読むには長文で、しかも作品の核心まで踏み込んだ内容である。 主催者側も、補足説明がなければ観客が戸惑うと考えたのだろう。 実際、私もその混乱に陥ってしまったようだ。 説明書を読みながら展示を進むのはなかなか疲れる。 そんな中で、心に残ったのが「サウンド・オブ・サイレンス」(2006年)である。 ある報道写真家がスーダンで撮影した一枚の写真をもとに、ジャーがドキュメンタ風に構成した映像作品だ。 その写真には「飢餓に苦しむ幼児の背後に、一羽のハゲワシが静かに立ち尽くす姿」が写っている。 後日、この写真はピューリツァー賞を受賞したものの、大きな物議を醸し、写真家は自ら命を絶ってしまった。  「見ることの責任」を問われたのである。 撮影後、写真家はその場を立ち去ったとされている。 この作品を通して私自身も多くのことを考えさせられた。 おそらく、ジャーという作家を忘れることはないだろう。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh294/ □寺田コレクション・ハイライト ■場内をざっと一回りする。 今回は有元利夫、堂本右美、難波田史男の作品が脳裏に残った。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh/detail.php?id=320 □岩崎泰波 ■何とも言えない面白い作品群だ。 観ていて飽きない。 「日常の見慣れたものがいつもと違ってみえるような瞬間を捉える」。 現実世界から出発しているので不思議な作品でも親しみが湧くのかもしれない。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh/detail.php?id=321

■モダンアートの街・新宿

■作家:中村彜,佐伯祐三,織田一磨,松本俊介,滝口修三,清宮質文ほか ■SOMPO美術館,2026.1.10-2.15 ■「池袋モンパルナス」は美術館や芝居で度々取り上げられるが、「新宿中村屋サロン」が話題に上ることは殆どない。 SOMPO美術館が50周年記念として新宿に目を向けたのはよいタイミングだと思う。 1章「中村彜と中村屋サロン」から始まる。 中村彜(なかむらつね)をじっくりみるのは今回が初めてである。 「カルピスの包み紙のある静物」(1923年)は特に気に入った。 印象派風を感じさせながら、素早い線が画面にリズムを与え、色彩とも調和している。 画家ベルナール・ビュフェを薄くしたような雰囲気もあり、眺めていても飽きない。 「頭蓋骨を持てる自画像」(1923年)を目にしたときは、エル・グレコを思い浮かべた。 描かれた人物は聖ペテロだろうか。 彜は1924年に亡くなっており、これら2作品は死の直前に描かれたものらしい。 どちらにも、死から逃れられない諦観が漂っている。 コラム1「文学と美術」では岸田劉生「画家の妻」(1915年)が展示されていた。 東京では滅多に見ることができない。 思いがけない贈り物だった。  2章は「佐伯祐三とパリ/新宿」。 佐伯はモーリス・ヴラマンクから「このアカデミックめ!」と一蹴されたらしい。 下落合を描いた2作品が展示されていたが、彼は新宿で生活していたのだろうか? 新宿をテーマにしながら、画家たちの生活地図を掲載していないのは片手落ちに思える。 当時の写真なども併せて展示されていれば、より画家たちに近づけたはずだ。 コラム2「描かれた新宿」では木村荘八の90年前の「新宿駅」(1935年)が目を引いた。 暗い画面だが静かな活気に満ちている。 かつてのニューヨークのグランド・セントラル駅を思い起こさせる。 数十年前の同駅はとても暗かった。 絵の前に立つと過去の記憶が次々と甦ってくる。 3章「松本俊介と綜合工房」、4章「阿部展也と滝口修三」。 ここで松本俊介や滝口修三が登場するのは意外であり展示の幅を感じさせる。 松本俊介の「N駅近く」(1940年)は西武新宿線中井駅付近を描いたものらしい。 隣は下落合駅で、池袋と新宿のほぼ中間に位置する。 今日の展示をみても、「池袋モンパルナス」と比べると新宿はやや影が薄い印象を受けた。 むしろ池袋の文...

■新しき油絵、小出楢重

■作家:小出楢重,国枝金三,鍋井克之,黒田重太郎ほか ■府中市美術館,2025.12.20-26.3.1 ■2001年4月、「そごう美術館」で開催された「小出楢重展」を鑑賞したことがある。 当時の記憶は薄れているものの、鑑賞記録には<最高>と記しており、今でも小出楢重は興味を惹かれる画家の一人だ。 今回も彼の全体像に改めて触れることができ、とても嬉しく思った。 先ずは、学生時代に日本画を専攻していたことを初めて知った。 「羅漢図」(1908年)などからも、若い頃からの確かな力量がうかがえる。 途中で洋画へ転じたものの「道頓堀の夕陽」「山の初夏」「草丘初夏」(1915年)などは平面的でやや暗く日本画と比べると野暮な印象を受けた。 1917年の結婚を機に人物画に取り組み始め、1921年の欧州旅行を経て生活様式を改め、洋画へと本格的に向かっていく姿は実に見事である。 その成果は「Nの家族」(1919年)や「静物」(1919年)に結実している。 「地球儀のある静物」(1925年)も気に入ったが、セザンヌの影響が感じられる点が興味深い。 その後の活動はますます多彩になっていく。 ガラス絵、挿絵、装幀、随筆に加え、芦屋へ転居してからはドライブやカメラにも関心を寄せたようだ。 これらは油絵の息抜でもあったらしい。 軸装や日本画はマチスの楽しさが漂っている。 「信濃橋洋画研究所」特集では、「雪の市街風景」(1925年)が国枝金三や鍋井克之の作品と比較されていたが、楢重の職業画家としての確かな技巧がよく伝わってきた。 他にも「街景」(1925年)が印象に残った。 「卓上静物」(1928年)は対象物を描き過ぎているものの円熟期の作品として魅力が感じられる。 さらに「楢重の裸婦」特集では、日本人裸婦の独特な生命感を湛えた7点の裸婦像が並び、「横たわる裸身」(1930年)を含め圧巻の内容だった。 43歳の若さで亡くなったことが改めて惜しまれる。 帰りには大國魂神社へ立ち寄った。 参道には出店が並び熱気に満ちていた。 猿回しの姿も見られ、今日の充実した展示を思い返しながら帰途についた。 *美術館、 https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/kikakutenkaisai/2025_koide_narashige.html

■2025年美術展ベスト10

*当ブログに書かれた美術展から最良の10展を選出. 並びは開催日順. 映画は除く. ■ 福本健一郎   東京オペラシティアートギャラリー ■ ヒルマ・アフ・クリント展   東京国立近代美術館 ■ ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ   アーティゾン美術館 ■ リビング・モダニティ、住まいの実験1920s-1970s   国立新美術館 ■ 岡崎乾二郎、而今而後   東京都現代美術館 ■ ルノワールXセザンヌ、モダンを拓いた2人の巨匠   三菱一号館美術館 ■ 藤本壮介の建築、原初・未来・森   森美術館 ■ 新しい建築の当事者たち   TOTOギャラリー間 ■ 山本理顯展、コミュニティーと建築   横須賀美術館 ■ ブルガリ・カレイドス、色彩・文化・技巧   国立新美術館 *今年の舞台は,「 2025年舞台ベスト10 」. *今年の舞台映像は,「 2025年舞台映像ベスト10 」.

■遠い窓へ、日本の新進作家vol.22 ■作家の現在、これまでとこれから ■プリピクテ

*下記□の3展を観る. ■東京都写真美術館,2025.10.15-2026.1.25 □総合開館30周年記念「遠い窓へ,日本の新進作家vol.22」 ■作家:寺田健人,スクリプアリウ落合安奈,甫木元空,岡ともみ,呉夏枝 ■近年の写真表現は技術の発達によって加工の有無が判別し難くなっている。 鑑賞した新進作家5人の作品は、岡ともみと呉夏枝を除けば、日常風景を題材にしているものが多い。 作品に添えられたアクセントもいわゆる<修正>とは無縁のようにみえる。 SNSでは加工画像が跋扈しているが、彼らはその世界から距離を置こうとしているのかもしれない。  しかし日常を主題とする写真は、しばしばテーマが見え難い。 そこで重要な役割を果たすのが作家の挨拶文などの物語、解説といった文章である。 この言葉と写真が結びついたとき、作品の意図が鮮明になり、腑に落ちた感覚が得られる。 日常風景は写真だけで勝負する時代が終わったのかもしれない。 *美術館、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-5087.html □総合開館30周年記念「作家の現在,これまでとこれから」 ■作家:石内都,志賀理江子,金村修,藤岡亜弥,川田喜久治 ■中堅作家5人は新進作家5人とは違う。 テーマが個人から社会へ移行するからだろう。 広島被爆者の遺品、東日本大震災、都市風景、広島平和記念式典、歴史の傷跡などなど。 これらは解説等を読まなくても内容が<わかる>からである。 しかし、この<わかる>には捻りが入っている。 このため観客には想像力が必要になる。 観客も中堅にならなければいけないようだ。 *美術館、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-5200.html □プリピクテ ■作家:新井卓,マリーナ・カネーヴェ,トム・フェヒト,バラージュ・ガールディ,ロベルト・ワルカヤ他 ■国際写真賞プリピクテを見るのは当美術館で3度目だ。 この賞は世界規模の持続可能性(グローバル・サステナビリティ)に光を当てている。 今回のテーマは「Storm(嵐)」。 自然災害から公害や戦争までの範囲を12人の作家がカバーしている。 受賞には伝えなければいけないナラティブ(ストーリー)が必要条件らしい。 今日の3...