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5月, 2019の投稿を表示しています

■ウィリアム・モリスと英国の壁紙展ー美しい生活をもとめてー

■そごう美術館,2019.4.20-6.2 ■百数十点の壁紙がずらりと並んでいると目移りがしてしまう。 生物を抽象化しても、そこに生命が宿っているかどうかが決め手だと思う。 抽象の中に生き生きとした感触が持てれば最高の壁紙かな。 「自然をありのままに再現する」(ラスキン)を一度解体したモリスの作品では特にネ。  モリス以前、モリス時代、モリス以後の3章で構成されているからモリスと他デザイナーとの違いが分かって面白い展示になっている。 もちろんモリス作品の中でも優劣をつけてしまうわね。 モリス以前の英国壁紙は質・量ともに劣っていたらしい。 産業革命の急成長も悪質の一因よ。 そのため多くはフランスからの輸入に頼っていたの。 そこでモリスが登場し盛り上げた。 でもモリス以降の作品もパッとしない。 娘メイ・モリスも親の七光りかな? 19世紀末はモリスが残した思想や運動が優先した時代のようね。 映像は二本あったが特にクリサンセソム(きく)とアカンサス(あざみ)の作成過程ビデオは<壁紙を見る力>を付けさせてくれた。 また「金唐革紙」もじっくり見て質感を海馬に記憶したわよ。 *サンダーソン社(英国壁紙会社)所蔵作品展 *館サイト、 https://www.sogo-seibu.jp/common/museum/archives/19/william_morris/

■自然国家 THE NATURE RULES

■発案・構成:崔在銀 ■原美術館,2019.4.13-7.28 ■「自然国家」とは自然が治める国なの。 朝鮮半島DMZ(非武装地帯)の巾4km全長250kmのエリアは60年経った今、自然国家が成立しつつある。 そこには100の絶滅危惧種を含む5000種の生物が暮らしているの。 でも300万個の地雷が敷設されていて、人間の対立によって生まれた豊かな生態系を持つ<国家>と言わざるを得ない。 この生態系をいかにして後世に手渡していくのか? このエリアに対して崔在銀と賛同者が2014年に「大地の夢プロジェクト」を立ち上げていくつかの提案をしている。 これを可視化したのが今回の展示会よ。 空中庭園や種子貯蔵案もいいけど両国が和解した以降にも「自然国家」が継続できないとだめ。 巾が4kmと狭いから技術的には可能かな。 アフリカ等と違って全250kmの管理も容易だわ。 今回は「自然国家」を多くの人に知ってもらうためには必要。 そして平和が訪れた後の「自然国家」持続可能な作案に直ぐに取り掛かるべきね。 *館サイト、 http://www.haramuseum.or.jp/jp/hara/exhibition/433/

■クリムト展、ウィーンと日本1900

■東京都美術館,2019.4.23-7.10 ■この美術館の企画展はいつも混み合う。 たとえば昼休みや閉館まじかを狙うなど時間をずらせて行くことが多い。 副題にウィーンが入っているが、先日観た「 ウィーン・モダン 」を絞り込んだ構成でクリムトと親近者で埋め尽くされている。 絞り込みが成功している。 各章の配分も浅からず深からずちょうど良い。 後半の「風景画」と「肖像画」が印象に残る。 金箔時代は「女の三世代」、金箔以後では「オイゲニア・プリマフェージの肖像」が気に入る。 クリムトのほぼ全てを観た満足感がある。 前半は弟エルンスト、友人フランツ・マッチュとカンパニーを設立して劇場からの請負を始めた話が面白い。 副題は「日本」を入れるより「Compagnie」を前面に出したほうが現代と繋がるだろう。 ショップで「KLIMT RE LOADED」をパラパラ眺めてから買う。 今もパラパラさせているが、これからパラパラつまみ読みをしようかと思う。 *館サイト、 https://www.tobikan.jp/exhibition/2019_klimt.html

■ルート・ブリュック、蝶の軌跡

■東京ステーションギャラリー,2019.4.27-6.16 ■入場して最初の作品「心のモザイク」を見ても分からなかったのですが、次の繊細に描いた花々をみてルート・ブリュックが女性だと知りました。 1章「夢と記憶」のズグラフィート(掻き落とし技法)の陶板絵は水彩画のようにみずみずしい。 2章「色彩の魔術」のスリップキャスティング(鋳込成形技法)になると実生活や思い出から離れていく。 それは具体から抽象になるが新鮮さは失われません。 3章「空間へ」は蝶学者の父の影響を受けてタイルに蝶を描いていく。 蝶の壁や床の中を歩き回ってみたくなるような素晴らしタイルです。 4章「偉業をなすのも小さな一歩から」。 タイルがより小さくなりその組み合わせに苦心している章名です。 小さなタイル作品は都市を俯瞰しているようにもみえます。 若い時に志した建築の夢が描かれているのでしょうか? それにしても作風が変化していく流れは見事です。 芸術を取り巻く社会的人間としての成長がみえます。 「ルート・ブリュックは美術と工芸の区別を取り払った・・」と挨拶文にもありましたが、これはアラビア製陶所での職業人としての立ち位置もあるはずです。 また日本の工芸や民芸とは違ったあやふやな分類で美術世界を分節化している。 これが作品の持っている自由を活き活きさせているのだと思います。 *館サイト、 http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201904_rutbryk.html

■トム・サックス、ティーセレモニー  ■コレクター頌、寺田小太郎氏を偲んで  ■衣真一郎

■東京オペラシティアートギャラリー,2019.4.20-6.23 □トム.サックス,ティーセレモニー ■これは楽しい。 日本文化を干した感じがする。 煮干しになった鰯、スルメになった烏賊、天日干しの鯵・・。 これらを目の前にした時と同じだわ。 違和感は無い。 音楽用スピーカを刀掛けにした日本刀はこんなにもシックリ納まっている(?) 茶の湯に親しんでいるか?と言われても本や写真から情報を得たものだけ。 逆に茶の湯の本質がみえてくる。 彼の茶室を覗いて分かったの。 茶の湯は形のある時間と空間だけだということが。 時空の表面に現れる物や人間関係もね。 形がちゃんと整っていればそれでいい。 個々がどう受け止めるかが違うだけ。 映像で座敷箒を庭帚でも使っていたのにはどういう訳か笑っちゃった。 それは日常を意識してしまったからだと思う。 それとトイレに旅客機用をそのまま使っているのにも笑えるわね。 海外旅行をしている気分よ。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh220/ □コレクター頌寺田小太郎氏を偲んで ■企画展のオマケとしての寺田コレクションはいつも心を和ませてくれる。 入口で配られた資料をみて寺田小太郎がどういう人か初めて知ったの。 難波田龍起との出会いが「東洋的抽象」をテーマに選ばせた。 そこから日本の「幻想絵画」へ向かう。 抽象と幻想が表裏の関係にあるらしい。 周辺に「具象」と「日本画」が位置している。 このような体系かな。 コレクションの中では「幻想絵画」が一番印象深い。 日本的幻想は地球の自然が宇宙に広がったように感じられ心身が休まるからよ。 ここで出会った作家たちは忘れることができない。 今日も堪能したわよ。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh221.php □衣真一郎展 ■タイトルに「風景」の文字が入る作品に良いのがある。 子供が描いたように見えるけどそれはカモフラージュ(風景に溶け込み欺くこと)だと分かる。 衣真一郎の風景はこれからどう進むのか楽しみネ。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh222.php

■野蛮と洗練、加守田章二の陶芸

■菊池寛実記念.智美術館,2019.4.13-7.21 ■加守田が関西を出て栃木で作陶に入ったのは何故か? 就職先が日立の関連会社だったからである。 次の遠野へ陶房を移した理由はよく分からない。 遠野の土は粗いと彼は言っている。 ザラザラツブツブ感がある。 野蛮とは土の感触を言っているのだろう。 ザラザラ野蛮と言ってよい。 会場最後の室に曲線彫文の壺や皿が並べてある。 それは手びねりで成形し竹べらで文様を彫っていく。 洗練とは言い難い線だが土と比較するとジワジワと納得してくる。 ジワジワ洗練と名付けたい。 彼の言葉「外見は陶器の形をしているが中身は別のもの・・」が最初理解できなかった。 あるキャプションに「口先が鋭いため壺の役目をしていない・・」とあったのでガッテン。 しかし紙のように薄くなっていく口先は縄文土器の模様より始末が悪い。 また採色された作品はどれも凡庸にみえ野蛮も洗練も無い。 「造形、文様、質感の関係性を追求」した成果のすべては曲線彫文壺に現れている。 ザラザラ野蛮ジワジワ洗練曲線彫文は宇宙人の鎧のようだ。 神経質なプレデターが喜びそうな造形だ。 *館サイト、 http://www.musee-tomo.or.jp/exhibition.html

■トルコ至宝展、チューリップの宮殿トプカプの美

■国立新美術館,2019.3.20-5.20 ■どうしてチューリップなのか分かった! トルコ語ラーレの文字を入れ替えるとイスラム教のアッラーや帝国の象徴である三日月に意味が似ているから。 ほんとかしら? この説明が幾度も登場するから確かなようね。 植物なら偶像崇拝にならないし・・。 全体を眺めると日本の文化と同じ特徴を持っているのが分かる。 イスラーム書法の書体の拘りが日本の書道に似ていると思わない? それに書画もある。 スルス書体、ナスフ書体とチューリップを組み合わせるの。 でも宗教的文章だから心の内はよく分からない。 それと陶磁器もね。 チューリップ用なの。 やはり中国の影響があるわね。 日本に無いものは? それはタイル。 日本にはタイル用粘土がなかった? それより湿気の多さとタイルは合わないとおもう。 気に入ったのは日陰テント。 本物は風格がある。 テントがあればあらゆる儀式ができる。 素晴らしいシステムだわ。 外国人が日本文化に接した時の感覚をトルコ文化で得られたのは貴重だった。  会場は女性客が9割で独特な雰囲気が漂う。 副題をみて来たのかしら? ところでスルタンは一人で食事を取るの。 ハーレム内の嫉妬などを避けるためよ。 帝国が長続きした理由かもネ。 *トルコ文化年2019展示会 *館サイト、 http://www.nact.jp/exhibition_special/2019/turkey2019/

■場所をめぐる4つの物語  ■宮本隆司、いまだ見えざるところ  ■JPS展

■東京都写真美術館,2019.5.14-8.4 □場所をめぐる4つの物語 ■ユージン・スミス「カントリー・ドクター」(1948年)、奈良原一高「人間の土地緑なき島、軍艦島」(ー1957年)、内藤正敏「出羽三山」(-1982年)、山崎博「Ten Points Heliography」(1982年)の4人が4場所で、その土地ならではの物語を作品に収めている。 前者3人は濃密な内容ですね。 これを薄める為に山崎博を入れたのかもしれない。 どれもこの館で観た覚えがあるが、作品を目の前にすると集中できます。 「軍艦島」が海底1000メートルも掘り下げた海底炭鉱だということを時々忘れてしまう。 真っ黒な姿の抗夫をみて思い出す。 島の表面しか見てないからでしょう。 また島に無い唯一のもの、それが墓地だということも今回初めて知りました。 葬儀の写真は記憶に残ります。  *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3410.html □宮本隆司,いまだ見えざるところ ■作品が素直ですね。 これなら自分でも撮れると思わせてしまう。 特に風景画は、です。 人物画はプロとアマの両方が混じりあっていてそれが交互に現れる。 凄い、たいしたことない、いや凄いと感じながらみました。 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3408.html □JPS日本写真家協会写真公募展第44回2019 ■会場に入りまず驚いたのは色がどっしりしていることです。 スマホでパチパチ撮っていますがここまで色が出せない。 一回りしてから場内一角にある「PROFFSSIONAL EYE」に入った途端、これは違うと直感しました。 写真の中のあらゆる部分が公正・公平に撮れているからです。 1枚の隅々まで緊張感が漂っている。 つまり公募作品はムラがあると言うことです。 どこかにムラ・ムダ・ムリが瞬間的にみえてしまうのがアマの写真でしょう。 作品をパッとみた瞬間が勝負です。 *館サイト、 https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-3424.html

■ウィーン・モダンークリムト、シーレ世紀末への道ー

■国立新美術館,2019.4.24-8.5 ■都美術館の「クリムト展」は観ていない。 こちら新美術館は世紀末ウィーンの全体像を描きたいらしい。 作品リストをみると面白い構成になっている。 4つの章の下に18の節、特に4章は6節あり、その下が幾つもの項目に分かれている。 このような詳細な構成は珍しい。 章・節・項を意識しながら見ていくと全体像が浮き出てくるという仕組みのようだ。 先ずはマリア・テレジアの息子ヨーゼフ2世が進めた改革を序章としている。 次の2章はビーダーマイアーの時代だ。 二月革命の影響も少しはみえるがシューベルトに絡めた都市生活と食器や家具などを並べて小市民的生活を押し出している。 そして世紀末の3章はリンク通りを俯瞰しながら建築や万国博覧会を語っている。 ここでは建築家オットー・ヴァーグナーが中心だ。 ウィーンへ行った時にリンク通りの路面電車を乗り降りしながら歩き回った記憶が甦った。 後半の4章はウィーン分離派の作品が構造的に展示されている。 そしてエゴン・シーレやオスカー・ココシュカでまとめ幕が下りる。 絵画、音楽、工芸、建築を巧くまとめているが、ウィーンはすっかりご無沙汰しているのでリズムに乗れない。 世紀末の表層をなぞっただけの観後感だ。 ウィーンにどっぷり浸かっている観客には一つ一つの作品が生き生きとみえたことだろう。 このような企画は世紀末都市と観客身体が祝祭的に一つにならなければ面白くない。 *日本・オーストリア外交樹立150周年記念展 *館サイト、 http://www.nact.jp/exhibition_special/2019/wienmodern2019/

■アートと人と美術館 meet the collection

■横浜美術館,2019.4.13-6.23 ■館所蔵作品から300点を紹介する展示で、4人の作家をゲストに招きコレクションと対話をさせる試みをしています。 この館は企画展の後に常設展が続く部屋構造になっているので常設品を見る機会が多い。 好きな一枚はジョアン・ミロ「花と蝶」です。 今回はゲスト淺井裕介の作品が力強くてミロが沈んでしまっていた。 これも・・、面白い。 「こころをうつす」ゲストの束芋「あいたいせいじょせい」も次の鏑木清方以降とは混じり合っていかない。 むしろ「春宵怨」「遊女」がいつもより輝いている。 ゲストとコレクションの時代落差の面白さでしょう。 所蔵品とシンクロしていたのは今津景ですか。 「イメージをつなぐ」でシッカリと繋がれていました。 そして「モノからはじめる」菅木志雄の作品はモノというより材木そのままですね。 気に入った章は「あのとき、ここで」です。 元号切替時期に合わせた章にみえる。 有名写真家の有名作品がズラッと並んでいて20世紀を一望できる。 100年を一息に体験したような感覚が襲ってきます。 横浜焼きの宮川香山の特集では息抜きができました。 *横浜美術館開館30周年記念 *館サイト、 https://yokohama.art.museum/exhibition/index/20190413-531.html

■裸の劇場、小金沢健人

■神奈川芸術劇場.中スタジオ,2019.4.14-5.6 ■この劇場で昨年開催した「 さわひらき、潜像の語り手 」が面白かったので今回も期待したのですが・・。 ほとんどが暗い会場は音響・照明・スモッグで満たされています。 真ん中にピアノが置いてある。 楽屋も解放してビデオ作品「半分シャーマン」(2019年)を上映している。 ・・。 仕事が終わりスタッフやキャストが帰ってしまった跡の劇場を描いているようにみえる。 彼らが作り出した光や音が残照や残響として今ここで漂っている感じでしょうか? でも裸の劇場と言われてもピンと来ません。 「裸」は劇場と役者の関係を論じる言葉だからでしょう。 タイトルからピーター・ブルックの「何もない空間」を考えてしまいました。 でも今回の作品は意味ある雑音が漂っていてブルックの真逆をいっている。 また太田省吾「裸形の劇場」を思い出していたのですが大きく違う。 ・・分かりました。 身体へ繋がる道筋が作品の中で見えない。 たぶん観客が少なすぎるからでしょう。 私を入れて3人でした。 劇場身体が活性化されない。 「裸の劇場」がつまらなかった理由です。 観客数が多ければ違ったかもしれない。 でもそれが理由なのか? 他にもあるように感じられます。 ピアノ演奏を期待したのですがパフォーマンス日時が決まっているようです。 この時間帯はありませんでした。 残念! *KAAT EXHIBITION 2019 Naked Theatre *館サイト、 https://www.kaat.jp/d/nakedtheatre

■ドービニー展、バルビゾン派から印象派への架け橋

■損保ジャパン日本興亜美術館,2019.4.20-6.30 ■ドービニー・・、聞いたことのない画家です。 バルビゾン一派らしい風景画が並びます。 印象派画家たちに影響を与えたと云われている。 若手登竜門のローマ賞に落選し続けたツワモノらしい。 ・・。 ドービニーの作品は近くでみると何かが不足している。 つまりデテールに魂が宿っていない。 3メートル以上離れて観るとそれが満たされてくる。 賞に落ち続けた理由はこのあたりでしよう。 歴史風景画「風景」「聖ヒエロニムス」は逆に見え見えです。 それよりも彼は版画を含め多くの作品を残している。 作品量の多さは食う為だったはずです。 その量がそのまま質に転化できた画家ですね。 この量が次世代画家の指針になり得た。 そして版画集「船の旅」などを見るとボタン号でセーヌ川やオワーズ川、セーヌ湾まで行って写生をしている。 版画を見ただけで彼の楽しい人生が感じられる。 船で小旅行をしながら絵を描く。 最高の日常でしょう! これではモネにも愛されるはずです。 *館サイト、 https://www.sjnk-museum.org/program/5750.html