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3月, 2017の投稿を表示しています

■エゴン・シーレ、死と乙女

■監督:D・ベルナ,出演:N・サーベトラ,M・リーグナ,F・ベヒナ ■Bunkamura・ルシネマ,2017.1.28-3.10(2016年作品) ■垢ぬけた作品にみえる。 人々の生活や街や世間の風景が洗練されていたからよ。 そして異国のモア、妹ゲルティ、運命の女ヴァリ、妻エーディットの輪郭がシンプルだけどクッキリと描かれていた。 この女たちの輪郭がそのままエゴン・シーレを形作っていた。 ここが面白かったところね。 だからシーレの心は直接には読めないの。 彼は作品について一言も話さない。 クリムトが登場する場面でもムニャムニャするだけ。 シーレの人間関係と社会との繋がりを描いているけどシーレと絵を繋げてはいない。 今シーレの絵を前にするとこの映画のシーレとは別世界にみえる。 垢抜けたシーレだったけど、でも素敵だったわよ。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/85783/

■レオナルド・ダ・ヴィンチ、美と知の迷宮

■監督:L・ルチーニ,N・マラスピーナ ■川崎アートセンタ,2017.3.11-24(2015年作品) ■美術史家や建築家が登場して解説をするがその時のカメラワークが酷い。 解説者を細かいカットや煩雑なクローズアップでこれでもかと撮影する。 解説者こそが主人公だと言っているようにみえます。 そして俳優がダヴィンチやラファエロ、サライに扮して登場するがこれも大袈裟な演技ですね。 ドキュメンタリとドラマの境界を混乱させています。 しかも日本語吹き替えだとは知らなかった。 レオナルドの声を聞いてイメージが崩れてしまった。 そして焦点が飛び放題でレオナルドを摘み食いしているような構成です。 「永遠の謎が明らかになる」どころか何が謎なのかまとめきれていません。 でも面白い作品解説もあったのでなんとか観ることができました。 * 「レオナルド・ダ・ヴィンチ,天才の挑戦」(江戸東京博物館,2016年) *作品サイト、 http://davinci-in-labyrinth.com/

■シャセリオー展、19世紀フランス・ロマン主義の異才

■国立西洋美術館,2017.2.28-5.28 ■シャセリオの絵は見たことはあるがよく知らない。 新古典主義と違いロマン主義は主観重視のため画家で好みが分かれる。 フランス代表はドラクロア一人にまとめてしまうのも名前が広まらない理由だろう。 シャセリオの性格は知らないが作品には優しさがみえる。 ソフトな感性は師匠アングルから受け継いだのかもしれない。 そして洗練さと生の弱さから都会生活が似合っていたようだ。 自画像や早死をみてそう思う。 オペラ「オテロ」を基にした連作「オセロ」、マクベスの「三人の魔女」から舞台好きにもみえる。 加えて生まれ故郷ドミニカやアルジェリア・イタリア旅行の記憶と混ざり合いなんともいえないロマン主義者になった。 ギュスターヴ・モロには物語と人物表情、シャヴァンヌ*1には人物存在感と壁画意味を影響として与えたのだろう。 *1、 「シャヴァンヌ展,水辺のアルカディア」(2014年) *展示会サイト、 http://www.tbs.co.jp/chasseriau-ten/

■アスリート展、ATHLETE

■ディレクタ:為末大,緒方嘉人,菅俊一 ■21_21DESIGN SIGHT,2017.2.17-6.4 ■想像し難い内容ですね。 でもディレクターズ・メッセージを読んで分かりました。 「少しだけ細かなことに気付く」ことがアスリートの条件らしい。 それは身体と環境の感じ方や捉え方や適用の仕方を考えることです。 観客は気付きの測定に参加できるようになっている。 たとえば巻尺を引っ張り出して指定された長さを瞬時に出せるか? 身体重心を長く不動にしていられるか? スプーンで卓球ボールを時間内で決められた場所に置けるか? ・・。 測定をしながら自身の身体を考え直すことができます。 アスリートについて想像力を働かせるようにもなる。 アスリートの言葉も面白い。 「縫いぐるみを抱くようにしてジャンプする」(フィギュアスケート)。 「頭から引っ張られているように泳ぐ」(水泳)。 「身体を棒にする」(陸上、ラグビー)。 「熱いフライバンの上にいると思って走る」(陸上短距離)。 「左手は目の前の窓を開ける・・」(陸上)。 アスリートが何を感じ取っているのか少し分かりました。 *館サイト、 http://www.2121designsight.jp/program/athlete/

■草間彌生、わが永遠の魂

■新国立美術館,2017.2.22-5.22 ■「わが永遠の魂」130点が展示してある大部屋は賑わっていて縁日での露店を見て回る楽しさがあるわね。 次の部屋からは年代順だけど初期も充実している。 「玉葱」(1948年)は玉葱で重力波が曲がっているようで面白い。 ニューヨーク時代(1960年代)は「集積」の到達点である赤と黒のネット・ペインティングの密度が素晴らしい。 それに続く家具を突起物が覆っている作品はモノとの異常関係を昇華して芸術域までに達している。 精神を病んでいた彼女にとって絵画は箱庭療法だとおもう。 前代のソフト・スカルプチュアや東京時代(1970年代)のブリコラージュはそれを特に感じる。 そして精神的安定に向かわせたのがコラボやタイアップで社会と関係したことかしら。 このころの作品はまさにプロを感じさせるわね。 途中に21世紀の章があったけど渾身の作にみえる。 そして会場順序が再び永遠の魂に戻るのは彼女の精神輪廻の流れそのものかもしれない。 *展示会サイト、 http://kusama2017.jp/