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■建築家白井晟一、精神と空間

■パナソニック電工汐留ミュージアム,2011.1.8-3.27 ■松濤美術館や飯倉のノアビルが白井の作品だと知り驚き納得しました。 ノアビルは異様な姿です。 ですから隣のソビエト大使館の警備の物々しさと共に忘れられない建物になります。 広島へ旅行した時、資料館の無機質な建物に違和感を覚えた記憶があります。 今回展示の原爆堂計画を見て違った良さを想像できました。 善照寺は屋根のひさしが長いにもかかわらず一つの塊のようにみえて白井の傑作に依存はありません。 どれもどっしりした建物ですが何か微妙なズレがあります。 哲学や書にはまり込んだため建物に異質な言葉をそのまま挿入したためではないでしょうか。 作品の全てに正統を進みたいが進められない拘りがあり、その差異が窓、取っ手、敷石、備品など細部に微妙に現れているところが面白いとおもいます。 ところで松下電工の初期住宅もひさしが長かったのも白井と関係あったのですかね。 *館サイト、 https://panasonic.co.jp/ew/museum/exhibition/11/index.html

■いきるちから

■府中市美術館,2010.12.2-2011.3.6 ■木下晋、菱山裕子、大巻伸嗣の3人展。 テーマに沿っているのは木下の絵画。 老いと病を鉛筆で描いているの。 現代人の多くはこの両方から逃れられないわ。 欲望や希望から離れて今この世に生きていること、それだけで素晴らしいことだ!と、ちからを与えてくれる作品だった。 菱山は網戸用の網を切り貼りして人形を作っているけど、細かい表情が出せないのですべて同じ顔に見えてしまう。 これでは直ぐに飽きてしまうわ。 大巻も光を鏡に反射させ壁に投影した抽象的機械的な作品ね。 後者2人の作品は「いきるちから」と繋がっていないようにみえる。 人の活動はすべていきるちからに係わるから、今回は抽象的で安易な展示会名だとおもうわ。 しかし毛色の違ったこの3人を一つのテーマ名でまとめるのは至難の業かも。 *美術館、 https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/kikakuitiran/ikiru.html

■櫃田伸也、通り過ぎた風景

■損保ジャパン東郷青児美術館,2011.1.8-2.13 ■灰、黄土、焦茶、青と歳が加わるごとに主色が変化していきます。 ボヤっとした土や草木に金網のような直線が四方に張り巡らされていて緊張感を誘います。 これが観る者を理知的にさせます。 ところどころに小さな・・、白い花、燐寸の燃滓、煙草の吸殻がハッキリと描かれているのを発見して作品の再解釈をします。 このように作品を往ったり来たりした満足感が後味として残る絵です。 薄い塗りも影響してそれは抑制のある感動を伴います。 絵画からの直接な感動はありません。 黄土系が多い中、洪水シリーズの青色系の映えが素晴らしかったです。 作品名の多くが「通り過ぎた風景」と「不確かな風景」です。 たぶん名前付けが面倒くさくなってしまったのでしょう。 *館サイト、 http://www.sjnk-museum.org/program/past/329.html

■テキサス2バーガー

■マクドナルド、2011.1.7-1.末 ■初代テキサスバーガのソースは味・香りに抑制が有りながら非日本的で遠くに古き良きアメリカをイメージできた。 この時ビックアメリカとして数種類を逐時発売したがこのテキサス以外は残念ながらアメリカの匂いはなかった。 先日、駅前のマックでテキサスの文字を見たのでこれを思い出し二代目テキサスを買った。 一口噛んだらなんと!重層的で複雑だが、しかし一つ一つはありきたりな味でとても失望してしまった。 上層にミートソース味しかもタコス入り、下層はカレーソース味になっていたのだ!?  日本ではスパゲティとカレーにはこだわりの歴史があるのに、それを易々とハンバーガに取り込むとは、マクドナルドはなにか勘違いをしているようだ。 これではビックアメリカではなくビックリジャパンだ。 王道から外れ過ぎている。  口に入れた時に、遥かなるロッキー山脈が、常夏のマイアミビーチが、喧噪のエパイヤーステートビルが現前するようなハンバーガを作ってもらいたい。 マクドナルドは大いに反省をしてほしい。

■佐藤忠良、ある造形家の足跡

■世田谷美術館、2010.12.23-2011.3.6 ■ http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/exhibition.html ■80点ものブロンズ彫刻をまとめて観たのは初めてです。 頭像や女性像を前にするとモデルになった人物の人間としての全てが伝わってきます。 素材が金属でも違和感なくそれを感じます。 「写実は単なる自然描写ではない。 作者が対象に持った共感が起きたときの衝動である」と佐藤は言っています。 共感こそ生物が持っている感情の源です。 こうして作者はモデルの全人格をブロンズに封じ込めます。 作品を前にするとき、この共感とともにモデルのすべてが現前するのです。 作品ごとに現れる人格が違うためどの作品も飽きがきません。 そして「作品にしゃべらせない」とも言っています。 喋らせないことにより自由に時間の中を行き来でき一層リアルに現前できるのです。 共感のリズムの中で、ひさしぶりに至福の時を持てました。

■朝香宮のグランドツアー

■東京都庭園美術館,2010.12.11-2011.1.16 ■旅行好きパリ好きなら目黒に足が向いてしまいますね。 グランドツアーとは皇族や貴族の学業の総まとめとして数カ月から数年の海外研修を指すようです。 われわれの旅行とは比較できませんが・・。 展示内容は美術館の宣伝になっています。 朝香宮のフランスでの交通事故遭遇と夫妻の長期滞在、家庭教師ブランショの紹介でラパン、ラリックとの出会い、1925年のアール・デコ博覧会、そして邸の建築へと進みます。 パリ迄の往復航路、現地での生活とそこを起点にした欧州旅行の3年間は朝香宮の人生を大きく塗り替えた様子がわかります。 同じように南のスエズ運河経由の船路か北のシベリア鉄道モスクワ経由でパリ入場をしたいですね。 このルート、欧州旅行好きだったら一番の願いではないでしょうか。 *IM、 https://www.museum.or.jp/event/70502

■池田龍雄、アヴァンギャルドの軌跡

■川崎市岡本太郎美術館,2010.10.9-11.1.10 ■「内灘シリーズ」や「反原爆シリーズ」の社会や政治を題材とした作品は生き生きとしてるわ。 ルポルタージュ絵画もね。 でも50年代からの抽象油彩は固さや冷たさがあり取っ付き難いし、最新の「場の位相シリーズ」も場が何か見えない感じよ。 「BRAHMANシリーズ」も面喰うわ。 社会・政治と宇宙・場の二つの世界が交互に作品に登場するけど連携していないから見る者は戸惑うことになるの。 また有名芸術家の名前が溢れるほど登場するけどグループの結成・解散も多い。 これで繋がりがよく見えない。 20世紀後半の資本主義の勝利で活動と成果がバラバラになり今となってはその場限りのパフォーマンスにしか見えなくなってしまったということかしら。 以上池田絵画の二面性と他芸術家の関係の二点がぼやけていたけど、戦後テーマは十分な質と量で構成されていて重たい展示会になっていた。 *館サイト、 http://www.taromuseum.jp/archive2010.html

■鉄を叩く、多和圭三展

■目黒区美術館,2010.11.13-11.1.9 ■作品を見ながらこれが鉄の塊だと思い起こすだけで、その圧倒的な重力に絡め取られて身動きができなくなる。 大理石からダビデ像がでてくるのとは違う。 ハンマーで叩いても表面に傷がつくだけだ。 なにか諦めの気持ちを持ってしまう。 がしかし、20世紀に生まれた人間として重さや諦めから解放されていたことを思い出してしまった。 それは鉄道のレールだ。 レールこそ今世紀最大の鉄塊の芸術作品だ。 地平線のその先まで伸び、駅では樹木のように広がり、輝きは毎時変化し、列車が走るとリズムを奏でる。 多和圭三が手を血豆だらけにしてハンマーを叩いても、レールの持つ速さ軽さ鋭さは越えられない。 *館サイト、 http://mmat.jp/exhibition/archives/ex011113