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■ルーヴル美術館展、ルネサンス

■画家:A・デューラー,E・グレコ,S・ボッティチェリ,ラファエロ・S,L・クラナッハ,L・ダ・ヴィンチ他 ■国立新美術館,2026.9.9-12.13 ■レオナルド・ダ・ヴィンチを観るために六本木へ向かった。 混雑のため入場まで三十分ほど待ったが、苦にはならない。 場内に入り、「女性の肖像(美しきフェロニエール)」の前ではさらに十分ほど列に並んだが、それも気にならなかった。 事前にダ・ヴィンチ自身による微細な筆致の変更や視線の謎について解説を聞いていたため、作品が放つ不思議な魅力をより深く理解できた。 展示にはボッティチェリ、ラファエロ、ティツィアーノそしてグレコ、クラナッハらも並び、画家名を見ただけで「ルネサンス展」として十分に合格点を与えられる内容だった。 工芸や版画も含まれていたが、作品点数は少なく、いわば「小型版ルネサンス」といった印象である。 久しぶりにダ・ヴィンチの作品を間近に鑑賞できた満足感を胸に、六本木を後にした。 単眼鏡は必携。 *美術館、 https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/louvre2026/

■カフェに集う芸術家―印象派からゴッホ、ロートレック、ピカソまで

■作家:ゴッホ,ルノワール,ドガ,ロートレック,ピカソ,ジュール・シェレ,ラモン・カザス他 ■三菱一号館美術館,2026.6.13-9.23 ■<カフェ>という場を私はうまく想像できない。 日本の<喫茶店>とも違い、かつて存在した「キャバレーハワイ」や<ダンスホール>とも異なる。 <バー>や<居酒屋>はどこに位置づけられるのか。 そもそも自分は「カフェ」という文化装置を十分に理解していなかったのだと、美術館ホームページの解説を読んで気づかされた。 本展はその「カフェ」を軸に、近代絵画の誕生からロートレック、そしてピカソへと至る流れを、ほぼ教科書的な構成で提示している。 1章 カフェを描く—レアリスムから印象派へ 2章 夜のカフェ—シェレ、ロートレックの世紀末 3章 〈シャ・ノワール〉の登場とその後の展開—パリとバルセロナの往還 さらに、ハイライトとして 1.シャ・ノワール 2.ムーラン・ド・ラ・ガレット 3.クアトラ・ガッツ が掲げられている。 章立てとハイライトを眺めていると、まるで「カフェに集う芸術家」という本の目次を読んでいるようだ。 展示の見どころも 1.19世紀フランス美術の見過ごされてきた主題 2.ピカソ「青の時代」への転換点 3.ラモン・カザス「マドレーヌ」 と三点に整理されており、内容に隙がない。 だがその「隙のなさ」が、逆に展示を夏休みの宿題のように感じさせた。 カフェという雑多で混沌とした場を扱いながら、展示はあまりに整然としている。 芸術家たちが集ったカフェの熱気や雑音よりも、体系化された美術史の枠組みが前面に出てしまっているように思えた。 *美術館、 https://mimt.jp/ex_sp/cafe/

■山口華楊展

■作家:山口華楊,西村五雲 ■SOMPO美術館,2026.7.11-8.30 ■山口華楊は京都ではなじみ深い存在だが、東京での回顧展はじつに27年ぶりとなる。 日本画の魅力は、動物をじっくり観察し、その存在の気配まで描きとる点にあるが、華楊の写生はとりわけ対象の真髄に迫っている。 家畜を描いた作品、「山羊」(1924))、「耕牛」(1934)、「草」(1941)はいずれも生命の重さが画面に宿り、暈しの効果が静かな安らぎをもたらしていた。 花鳥画家としての力量も遺憾なく発揮されている。 「青蓮院の老木」(1973)の老木や、「白露」(1974)の向日葵や鶏頭には動物に通じる生命感がみなぎり、華楊の観察眼の広さを実感した。 会場には、海軍省派遣画家としてアンボン島で写生した作品も展示されていた。 アンボン島は、戦時中に父が滞在していた場所である。  陸軍兵士として南方の島々を転々とした父の記憶がふと蘇り、作品を前にしばし立ち尽くしてしまった。 戦後の華楊は「偉大なる動物画家」として大成する。  写生の精度は衰えず、そこに抽象性が加わることで、画面に精神性が立ち上がってくる。 見慣れた家畜だけでなく、「虎」(1956)、「黒豹」(1960)、「ライオン」(1962)などの作品では、動物の姿を通して内面世界を描こうとする意志が感じられる。 その到達点として描かれた「幻化」(1979)では、「すべてのものに実体はない」という仏教的な思想が明確に示される。 実体と非実体という背反する概念を、画面の上で統合してみせた稀有な画家であることを改めて思った。 今日は、日本画の奥行きを十二分に味わうことができた。 *開館50周年記念展 *美術館、 https://www.sompo-museum.org/exhibitions/2025/yamaguchikayo/

■ほぼ、空=青木淳+リチャード・タトル ■東山詩織

*以下の2展示□を観る. ■東京オペラシティアートギャラリー,2026.7.18-9.23 □ほぼ空,青木淳+リチャード・タトル ■館入口近くのショップが展示室として取り込まれており、既存の空間がそのまま拡張されたように感じられた。 薄暗い会場に足を踏み入れると、がらんどうの空間に大きな白い柱が数本立ち、天井からは針葉樹の枝を収めたバスケットがいくつも吊り下げられている。 壁面には、色の帯のような布が点在するように貼りつけられていた。 ほとんど何もない空間に靴音だけが響き、数枚の野田穫の絵が配置されている。 途中のコリドールはショップとして機能しており、展示と日常の境界が曖昧に混ざり合っていた。 薄暗い二階へ進むと、白い柱・バスケット・帯という三つの要素が同じ調子で反復され、空間全体に一定のリズムを与えていた。 この展示は「地底旅行」のようだと感じた。 地下深くに生まれた空洞を歩いているかのようで、空気には暗さと湿り気が含まれている。 そこで見上げる「ほぼ、空」は、地上の空とは異なり、このような感じだろう。 野田穫の建築画も、針葉樹の存在も、この地底的な感覚にしっくりと馴染む。 久しぶりに、別世界へ迷い込んだような体験を楽しむことができた。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh300/ *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh/detail.php?id=326 □東山詩織 ■東山詩織の作品は、「グリッドやパースを感じさせる幾何学的な画面構成」という紹介文のとおり、画面の奥行きと秩序がまず視覚を捉える。 どこかで見たような感覚が立ち上がるのは、フランス式庭園の平面幾何学にも似た、人工的な構造の美しさがあるからだろう。 さらに、荒川修作の作品がふと脳裏をよぎった。 数字や矢印が支配していた時代が廃墟となり、その上に柔らかな緑が生い茂る、そんな「新しい時代の風景」を東山が描いているようにも思える。 画面には「平和で牧歌的な風景」が広がり、幾何学的な構造と自然の生成が同居している。 作品群は、観る者の想像を大きく広げる力を持っている。 フラクタルのように反復しながら永遠へと伸びていく形態が、脳の奥を心地よく刺激する。 初めての画家であったが、名前は忘れることはないだろうと思わせる確かな印象が残っ...

■前田寛治、ポエジイとレアリスム

■作家:前田寛治,小島善太郎,木下孝則,里見勝蔵,佐伯祐三ほか ■東京ステーションギャラリー,2026.7.4-8.30 ■前田寛治の名といくつかの作品には触れていたものの、彼の活動期間が十年に満たないこと、そしてその全体像に初めて近づけたのが今回の展示会である。 「前田」を「まえた」と読むことを含めて、基本的な理解も輪郭を持つことができた。 展示は「絵は詩である」「パリ留学、写実への目覚め」「帰国後の活躍、実在感を求めて」「1930年協会、生命の写実」「如何に超越すべきか」の五章構成で、前田の画風の変遷と思想の深化を段階的に示している。 大正期、多くの画家が渡仏したが前田もその一人である。 滞在中の作品を追っていくと、画風が大きく変貌していく様が手に取るように分かる。 クールベからセザンヌ、さらにキュビスムを経て、レアリスムの追求へと向かう。 福本和夫の唯物史観からの影響も大きく、質感・量感・実在感への志向が次第に強まっていく。 その探究は帰国後の「1930年協会」に結実し、前田は新しい芸術の波を求め続けた。 二階の大展示室では、中央に壁を設けて空間を二分し、「パリ留学(後半)」の婦人像群と「帰国後の活躍(前半)」の裸婦・裸体群を対置している。 やや狭くなった空間が緊張感を生み、画家の思想が押し寄せてくるようだった。 部屋の中央に立ち、ゆっくり一回転すると、作品が流れるようにつながり、視線と身体が展示に導かれていく。 この鑑賞体験が何とも言えず心地よい。 「1930年協会」の章では、協会メンバーの作品が並び、彼らの活動を補足し厚みを与えていた。 終章「如何に超越すべきか」は早すぎる死が痛ましい。 すべてを見終えたとき、短い生涯に凝縮された前田寛治の画業が迫ってきて、満ち足りた観後感が静かに押し寄せてきた。 *美術館、 https://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/202607_maeda.html

■エットレ・ソットサス、魔法がはじまるときデザインは生まれる ■瀧口修造、書くことと描くこと

*下記の□2展示を観る. ■アーティゾン美術館,2026.6.23-10.4 □エットレ・ソットサス,魔法がはじまるときデザインは生まれる ■作家:エットレ・ソットサス,マルコ・ザニーニ,ミケーレ・デ・ルッキ,倉俣史郎 ■ブログを遡ると、2011年にデザインサイトで開催された「倉俣史朗とエットレ・ソットサス展」を訪れていたことがわかった。 あれからすでに15年、石橋財団は次の好機を慎重に見極めていたのだろうか。 今回の展示は当時の記憶を一度リセットするほど新鮮に映った。 珍しい写真を含め、作品数も過不足なく配置され、密度と呼吸のバランスがよい内容だった。 ソットサスの経歴をあらためて辿ると、戦後の混乱期を経て工業デザインへ接近し、インド旅行や米国西海岸での滞在、さらにはカタルーニャ放浪の旅が、彼の造形感覚に多層的な影響を与えていることがわかる。 個人的な記憶だが、タイプライターを購入しようとしていた頃、ちょうどオリベッティ「ヴァレンタイン」が発売された。 デザインは魅力的だったものの、あの赤色だけはどうしても受け入れられず、結局「レッテラ32」を選んだことを思い出す。 しかしその後、ソットサスの色彩感覚、スカッと抜けるようでいて、どこか揺るぎない安定感をもつカラフルな配列には驚かされ続けてきた。 今回の展示で「メンフィス」グループのメンバーに磯崎新の名を見つけたことは、長年の謎を解く鍵となった。 磯崎の「ティーム・ディズニー・ビルディング」(1991年)の実験的な形態と色彩はどこから来たのかと感じていたが、あの中央にそびえる円筒形と周囲の立方体の構造と色彩は、まさしく「トーテム」や「家具」の系譜に連なるものだと確信ができた。 「メンフィス」や「磯崎新」に加え、「鉛の時代」「スーパースタジオ」「アレン・ギンズバーグ」といった言葉が次々と過去を呼び起こす。 久しぶりに、目と脳が一気に覚醒するような展示であった。 *美術館、 https://www.artizon.museum/exhibition/detail/602 □瀧口修造、書くことと描くこと ■作家:パウル・クレー,マルセル・デュシャン,ジョアン・ミロ,岡鹿之助,堂本尚郎,荒川修作ほか ■正直に言えばかなり疲れる展示だった。 批評文や書籍の活字はどれも小さく、読む前から気力を削がれる。 瀧口が描...

■ピカソmeetsポール・スミス、遊び心の冒険へ

■作家:パブロ・ピカソ,ポール・スミス ■国立新美術館,2026.6.10-9.21 ■英国人デザイナー、ポール・スミスが会場レイアウトを手がけた展示会だという。 かつて私も彼の鞄を使っていた。 黒を基調に、わずかに紫が差し色として入った控えめなデザインで、仕事にも使える上品な遊び心があった。 彼の服飾が「ひねりのあるクラシック」と評されるのは、今日の副題にある「遊び心」と深く通じている。 会場は十六の部屋で構成されており、その多くはポール・スミスらしい<捻り>が効いている。 時にその捻りが効きすぎて、ピカソそのものを見失いそうになる部屋すらある。 しかし、そのズレこそが面白い。 ピカソの遊び心と、スミスの遊び心が、時には競い合い、時には共鳴し合い、思わぬ視点を生み出していた。 この二人を組み合わせるという発想は、いったい誰が思いついたのだろう。 ピカソを<展示する>のではなく、ピカソと<遊ぶ>ための空間をつくり上げた企画展だった。 *美術館、 https://art.nikkei.com/picasso_ps26/

■アンドリュー・ワイエス展

■作家:アンドリュー・ワイエス,所蔵:丸沼芸術の森ほか ■東京都美術館,2026.4.28-7.5 ■1974年、国立近代美術館で開催された「アンドリュー・ワイエス展」の衝撃はいまも忘れがたい。 その記憶があるからこそ、東京都美術館での今回の展覧会にも胸が高鳴った。 鑑賞を進めるうちに、今回はとりわけ第3章「オルソン・ハウス」に焦点を当てた構成であることが分かってくる。 「丸沼芸術の森」所蔵の水彩画や鉛筆画がずらりと並び、さらにオルソン・ハウスの建築図面まで展示されているのが興味深い。 会場には「境界の深淵に迫る」というテーマが掲げられていた。 ワイエスは屋根や壁、ドアや窓といった建物の境界を丹念に描き込み、そこに人の気配を重ねていく。 水彩・テンペラ・ドライブラッシュ水彩を自在に操る筆致によって、建物そのものがワイエス的な<境界>として静かに立ち上がってくる。 ハウスに暮らした姉弟の姿も描かれているが、作品数は多くない。 それでも人物を描かずとも、空間には濃密な気配が満ちている。 なぜワイエスの境界は「深淵」なのか。 そこには<喪>の気配が漂っているからだ。 ここでいう喪とは、すでに訪れた死ではなく、姉弟がこれから迎えるであろう「人間の定めとしての死」の影である。 その予兆が画面に沈殿し、ワイエス作品特有の衝撃力を生み出している。 テンペラによる人物画は「クリスティーナ・オルソン」(1947年)の一枚のみで、やや物足りなさも残った。 ハウスから離れた作品としては「自画像」(1945年)など数点が展示されていた。 久しぶりにワイエスの世界に浸ることができたが、焦点を絞った展示構成であったため、感動もまた限定的なものとなった。 単眼鏡は持っていた方がよい。 *東京都美術館開館100周年記念 *美術館、 https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_wyeth.html

■チュルリョーニス展、内なる星図

■作家:ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス,所蔵:国立M.K.チュルリョーニス美術館 ■国立西洋美術館,2026.3.28-6.14 ■会場で上映されていたチュルリョーニスの紹介映像を眺めながら、リトアニアと聞いて真っ先に思い浮かぶのが映画作家ジョナス・メカスしかいないことに気づく。 1970年代の作品はいまも記憶に残っているが、それほどにリトアニアは遠い国として私の中にあった。 チュルリョーニスという名は今回が初めてで、しかも彼は画家であると同時に音楽家でもあったという。 作品のタイトルに音楽用語が付されているのもそのためだろう。 そういえば会場にも彼の音楽が流れていた。 今こうして美術館のウェブに掲載されていた彼の作曲集を聴きながら、この文章を書いている。 特に心に残ったのは「星のソナタ」(1908年)と「おとぎ話」(1907年)の数枚である。 そして「祭壇」(1909年)の前では、ふと画家・有元利夫の名が頭をよぎった。 チュルリョーニスと同じく、絵画の背後に音楽的な気配を感じさせる作家である。 絵画と音楽の関係は興味深い。 個々の作品というより、画家が持つ固有の画風から音楽の形や質が立ち上がってくるからだ。 作家ごとに<画風=音風景>が成立する。 この式こそが、本展のタイトルにある「内なる星図」を指しているのかもしれない。 さらに、ロシア帝国支配下のリトアニアに根差した個性が、絵画にも音楽にも確かに感じられる。 展示の最後に置かれていた「レックス(王)」(1909年)は、その歴史的背景が最も強く押し出された作品だった。 彼の得意とする鳥瞰的で豊かな風景とは異なり、王の暗い姿が重く沈む。 政治状況が彼の精神を追い詰めた一因であったとしても不思議ではない。 ともあれ、今日は遠いと思っていたリトアニアに一歩近づけたようで、彼の画風が持つような静かな喜びが残った。 *美術館、 https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026ciurlionis.html

■拡大するジュルレアリスム 日常を変える、世界を変える。 ■幻想の景色と不思議ないきものたち ■大上巧真 OueTakuma

*以下□の3展示を観る. ■東京オペラシティーアートギャラリー,2026.4.16-6.24 □拡大するシュルレアリスム 日常を変える,世界を変える ■作家:マルセル・デュシャン,マン・レイ,フランシス・ピカビア,サルバドール・ダリ,アンドレ・ブルトン他 ■日本各地の美術館から作品を集めた展示会である。 過去に観た作品も多く、新鮮味という点ではやや欠けるものの、シュルレアリスム入門としての性格が強く感じられた。 第一章「オブジェ」の解説には、シュルレアリスムの目指す方向性が示されていた。 そこでは「客観と超現実の関係」が語られ、主体の意識を客体へと移し、客体そのものが立ち現れる瞬間を待つという態度が強調されている。 客体が超現実的に変容していく過程を作品化する。 つまり、シュルレアリスムとは幻想や夢を初めから語るのではなく、客観を徹底して扱うことで超現実へ到達しようとする運動なのだ。 展示はその後、「写真」「絵画」「広告」「ファッション」「インテリア」へと続いていく。 二次元から三次元へと領域が広がり、客体の“本丸”へ向かっていくようにも見えた。 今日は第一章の解説に沿って作品を鑑賞したが、これは作家の制作過程を追体験する行為も含まれるので、なかなかに疲れる作業でもあった。 それでも、久しぶりのシュルレアリスム展を十分に楽しむことができた。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh297/ □幻想の景色と不思議ないきものたち,収蔵品展086 寺田コレクションより ■作家:落田洋子,川口起美雄,望月通陽,池田龍雄ほか ■1階の企画展を観終え、2階の収蔵品展へ向かった。 どちらも幻想や夢を主題とした作品が多いが、2階に並ぶ作品は1階とは対照的に、作家の主観から直接生まれた世界が強く前面に出ている。 これは日本独自の流れなのか、それとも時代的な傾向なのか? おそらく前者だろう。 チラシには古今和歌集の一首が引用されていた。 「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ」。 夢と現実が主客分離しないまま境界で溶け合う、この感覚こそ日本的な幻想の源泉なのだと感じた。 企画展と収蔵品展を続けて観ることで、客観的に構成された幻想と、主観から立ち上がる幻想という対照が際立ち、その組み合わせが特に興味深かった。 *美...

■ウジェーヌ・ブーダン展 瞬間の美学、光の探求

■作家:ウジェーヌ・ブーダン,エミール・ヴェルニエ,ロイス・デルテイユ ■SOMPO美術館,2026.4.11-6.21 ■日本では30年ぶりとなるブーダンの回顧展だという。 印象派展では脇役として扱われがちなブーダンだが、今回は100点もの作品をまとめて鑑賞できる貴重な機会となった。 ブーダンの絵画は、空と海が画面の大半を占める。 まさにコローが評した「空の王者」という言葉が腑に落ちる。 派手さはないが、眺めているうちに心が静かにほどけていくような癒しがある。 彼の描く雲や波は、自然の変化を忠実に写し取っているようだ。 今回の展示で知ったのだが、船乗りの父の影響もあり、ブーダンは「天候を読む漁師の目」を持っていたという。 だからこそ、印象派の画家たちのように色彩に溶け込ませるのではなく、雲や波が現れては消えていく、その一瞬の相貌を確かに捉えている。 ボードレールが述べた「気象学的な美しさ」という表現が、これほど似合う画家も珍しい。 海景から陸景へ移ると、画風は一気にバルビゾン派へ近づく。 トロワイヨンの影響が強いと解説されていたが、そこにコロー風の柔らかなタッチも感じられる。 後半になると、ヴェネツィアの建物の壁には雲の質感が塗り込められ、牛の量感には雲を固めたような重さが宿っていく。 湖や池の水面は不思議なほど静まり返っている。 陸では、彼の“天候を読む力”が対象物に付着しているかのようだが、モノとして力が立ち上がってこない。 やはりブーダンは、何もないようでいて無限の変化が潜む空と海にこそ帰るべき画家なのだと、改めて感じさせられた。 *美術館、 https://www.sompo-museum.org/exhibitions/#now

■YBA&BEYOND、世界を変えた90s英国アート

■作家:フランシス・ベーコン,ダミアン・ハースト,デレク・ジャーマン,スティーヴ・マックイーン,サイモン・パターソン他 ■国立新美術館,2026.2.11-5.11 ■1980年代後半から2000年頃までに製作された英国美術に焦点を当てた展示会である。 1988年、作家ダミアン・ハーストが企画した「フリーズ」展に集まった作家たちは、YBA、つまりヤング・ブリティッシュ・アーティストと呼ばれるようになった。 会場に入ると、まずフランシス・ベーコン「トリップテック(三幅対)」(1988年)が目に飛び込み、続いてダミアン・ハースト「後天的な回避不能」(1991年)が現れる。 しかし、独自の表現を追求する作家たちの作品も並び、最初は全体像がつかみにく印象を受けた。 「ハンズワースの歌」(1986年)のドキュメンタリー映像を観た後、これら三作品を通して展示の主題が徐々に見えてきたように感じられた。 英国の身体・社会・歴史が世紀末に向けて溶解し始めていたのだ。 そこには英国特有の植民地主義の影も含まれるだろう。 この溶解は今も続いていて先が見えない。 AIやドローン兵器といった劇的な技術変化を取り込みながら、このまま21世紀は進んでいくのかもしれない。 映像作品では「ハンズワースの歌」のほか、トレイシー・エミン「なぜ私はダンサーにならなかったのか」(1995年)、スティーヴ・マックイーン「熊」(1993年)、スタバ・ビスワス「ミッキー・ベイカーの試練と苦労」(1997年)、マーク・ウォリンジャー「王国への入口」(2000年)などを観ることができた。 エミンは赤裸々な性差別を語り、ビスワスは階級差別を語る。 「ジャマイカでは肌の色の濃淡で階級と教育程度が分かってしまう。 それを私はいつも気にしていた・・」。 ・・。 ウォリンジャーは空港の到着ゲートに注目するが、そこに映るのは日常的に見慣れた会社員ばかりで、狙いは理解できるものの強い印象は残らなかった。 それよりも「ハンズワースの歌」に映る英国の港へ到着する移民船の乗客たち、安っぽい背広にネクタイを締めた人々の姿に衝撃を受けた。 彼らの背伸びをした正装で到着ゲートを通る姿に・・。 これまで「世紀末」といえば19世紀末を指すことが多かったが、ようやく20世紀末を描くことができる時代になってきたと感じられた。 英国以外の国...

■モダンアートの街・新宿

■作家:中村彜,佐伯祐三,織田一磨,松本俊介,滝口修三,清宮質文ほか ■SOMPO美術館,2026.1.10-2.15 ■「池袋モンパルナス」は美術館や芝居で度々取り上げられるが、「新宿中村屋サロン」が話題に上ることは殆どない。 SOMPO美術館が50周年記念として新宿に目を向けたのはよいタイミングだと思う。 1章「中村彜と中村屋サロン」から始まる。 中村彜(なかむらつね)をじっくりみるのは今回が初めてである。 「カルピスの包み紙のある静物」(1923年)は特に気に入った。 印象派風を感じさせながら、素早い線が画面にリズムを与え、色彩とも調和している。 画家ベルナール・ビュフェを薄くしたような雰囲気もあり、眺めていても飽きない。 「頭蓋骨を持てる自画像」(1923年)を目にしたときは、エル・グレコを思い浮かべた。 描かれた人物は聖ペテロだろうか。 彜は1924年に亡くなっており、これら2作品は死の直前に描かれたものらしい。 どちらにも、死から逃れられない諦観が漂っている。 コラム1「文学と美術」では岸田劉生「画家の妻」(1915年)が展示されていた。 東京では滅多に見ることができない。 思いがけない贈り物だった。  2章は「佐伯祐三とパリ/新宿」。 佐伯はモーリス・ヴラマンクから「このアカデミックめ!」と一蹴されたらしい。 下落合を描いた2作品が展示されていたが、彼は新宿で生活していたのだろうか? 新宿をテーマにしながら、画家たちの生活地図を掲載していないのは片手落ちに思える。 当時の写真なども併せて展示されていれば、より画家たちに近づけたはずだ。 コラム2「描かれた新宿」では木村荘八の90年前の「新宿駅」(1935年)が目を引いた。 暗い画面だが静かな活気に満ちている。 かつてのニューヨークのグランド・セントラル駅を思い起こさせる。 数十年前の同駅はとても暗かった。 絵の前に立つと過去の記憶が次々と甦ってくる。 3章「松本俊介と綜合工房」、4章「阿部展也と滝口修三」。 ここで松本俊介や滝口修三が登場するのは意外であり展示の幅を感じさせる。 松本俊介の「N駅近く」(1940年)は西武新宿線中井駅付近を描いたものらしい。 隣は下落合駅で、池袋と新宿のほぼ中間に位置する。 今日の展示をみても、「池袋モンパルナス」と比べると新宿はやや影が薄い印象を受けた。 むしろ池袋の文...

■新しき油絵、小出楢重

■作家:小出楢重,国枝金三,鍋井克之,黒田重太郎ほか ■府中市美術館,2025.12.20-26.3.1 ■2001年4月、「そごう美術館」で開催された「小出楢重展」を鑑賞したことがある。 当時の記憶は薄れているものの、鑑賞記録には<最高>と記しており、今でも小出楢重は興味を惹かれる画家の一人だ。 今回も彼の全体像に改めて触れることができ、とても嬉しく思った。 先ずは、学生時代に日本画を専攻していたことを初めて知った。 「羅漢図」(1908年)などからも、若い頃からの確かな力量がうかがえる。 途中で洋画へ転じたものの「道頓堀の夕陽」「山の初夏」「草丘初夏」(1915年)などは平面的でやや暗く日本画と比べると野暮な印象を受けた。 1917年の結婚を機に人物画に取り組み始め、1921年の欧州旅行を経て生活様式を改め、洋画へと本格的に向かっていく姿は実に見事である。 その成果は「Nの家族」(1919年)や「静物」(1919年)に結実している。 「地球儀のある静物」(1925年)も気に入ったが、セザンヌの影響が感じられる点が興味深い。 その後の活動はますます多彩になっていく。 ガラス絵、挿絵、装幀、随筆に加え、芦屋へ転居してからはドライブやカメラにも関心を寄せたようだ。 これらは油絵の息抜でもあったらしい。 軸装や日本画はマチスの楽しさが漂っている。 「信濃橋洋画研究所」特集では、「雪の市街風景」(1925年)が国枝金三や鍋井克之の作品と比較されていたが、楢重の職業画家としての確かな技巧がよく伝わってきた。 他にも「街景」(1925年)が印象に残った。 「卓上静物」(1928年)は対象物を描き過ぎているものの円熟期の作品として魅力が感じられる。 さらに「楢重の裸婦」特集では、日本人裸婦の独特な生命感を湛えた7点の裸婦像が並び、「横たわる裸身」(1930年)を含め圧巻の内容だった。 43歳の若さで亡くなったことが改めて惜しまれる。 帰りには大國魂神社へ立ち寄った。 参道には出店が並び熱気に満ちていた。 猿回しの姿も見られ、今日の充実した展示を思い返しながら帰途についた。 *美術館、 https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/kikakutenkaisai/2025_koide_narashige.html

■2025年美術展ベスト10

*当ブログに書かれた美術展から最良の10展を選出. 並びは開催日順. 映画は除く. ■ 福本健一郎   東京オペラシティアートギャラリー ■ ヒルマ・アフ・クリント展   東京国立近代美術館 ■ ゾフィー・トイバー=アルプとジャン・アルプ   アーティゾン美術館 ■ リビング・モダニティ、住まいの実験1920s-1970s   国立新美術館 ■ 岡崎乾二郎、而今而後   東京都現代美術館 ■ ルノワールXセザンヌ、モダンを拓いた2人の巨匠   三菱一号館美術館 ■ 藤本壮介の建築、原初・未来・森   森美術館 ■ 新しい建築の当事者たち   TOTOギャラリー間 ■ 山本理顯展、コミュニティーと建築   横須賀美術館 ■ ブルガリ・カレイドス、色彩・文化・技巧   国立新美術館 *今年の舞台は,「 2025年舞台ベスト10 」. *今年の舞台映像は,「 2025年舞台映像ベスト10 」.

■印象派、室内をめぐる物語

■作家:フレデリック・バジール,アルベール・バルトロメ,エドゥアール・マネ,ポール・セザンヌ他 ■国立西洋美術館,2025.10.25-26.2.15 ■会場は1章「室内の肖像」2章「日常の情景」3章「室内の外光と自然」4章「印象派の装飾」と続き、観客は部屋や庭を歩き回る設定にみえる。 しかし、どこまでも〈室内〉という空間にこだわり続ける構成が面白い。 年表を開くと、画家たちは日本の明治時代初期に活躍していたことが分かる。 当時の日本の家庭や室内の様子すら明確に思い描けないのに、遠いフランスの室内となると、なおさら想像が及ばない。 それでも、展示されている作品はどれも心を落ち着かせてくれる。 <室内>という空間が安心感をもたらしているのだろう。 描かれている人物の多くは富裕層と思われる。 装飾品だけではなく部屋の模型をみても豊かな生活が窺える。 画家たちは生活のために裕福な家庭を描かざるを得なかったとも聞いている。 理想化した室内を並べることで、画家たちが風景画<室外>を理想化するのと違う論理が働いているところは興味深い。 ただし結果が同じになるのは芸術の所以かもしれない。 見覚えのない作品が多かったのも嬉しい驚きだ。 セザンヌ「ギュスターヴ・ジェフロワ」も記憶にない。 広げられた白いノートが三冊、ロダンの彫刻、花瓶の花・・、セザンヌらしい構成だ。 マネ、モネ、ドガ、ルノワールも堪能できた。 しばらくご無沙汰しているオルセー美術館にまた足を運びたくなってきた。 *オルセー美術館所蔵展 *美術館、 https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2025orsay.html

■ダ・ヴィンチは誰に微笑む ■ロスト・レオナルド、史上最高額で落札された絵画の謎

*以下の□2本の映画を観る. □ダ・ヴンチは誰に微笑む ■監督:アントワーヌ・ビトキーヌ ■配信,(フランス,2021作) *映画com、 https://eiga.com/movie/95754/ □ロスト・レオナルド,史上最高額で落札された絵画の謎 ■監督アンドレアス・クーフート,出演:ダイアン・モデスティーニ,イブ・ブービエ,エバン・ビアード他 ■配信,(デンマーク,2021作) *映画com、 https://eiga.com/movie/96547/ ■レオナルド・ダ・ヴィンチ作とされる「サルバトール・ムンディ(救世主)」の真贋や売買の経緯を描いたドキュメンタリー映画を2本観た。 ・・美術商・学芸員・専門家・研究者・評論家・競売会社などの美術関係者に加え、実業家などの入札者が入り乱れ、やがて国家までもが巻き込まれていく・・。 「ダ・ヴィンチは誰に微笑む」はニュース解説のような構成で事実を淡々と追っていく。 一方、「ロスト・レオナルド」はより捻りをかけて複雑な人間模様や政治的背景にも踏み込んでいる。 果たしてこの絵は本当にダ・ヴィンチの手によるものなのか? その判定は今でも分かれているという。 この「サルバトール・ムンディ」を初めて目にしたとき、脳裏に浮かんだのはイングマル・ベルイマン監督の「沈黙」の一場面だった。 それは、あるモーテルの一室での描写だ。 昏睡状態に近い姉が「ドアの向こうに<あの人>が立っている!」と叫び、乱れる。 しかし妹は否定し「あれは車のライトよ、誰もいない」と答える。 数十年前に観た映画なので台詞は定かではないが、強烈な印象だけは残っている。 キリストの姿はこれまで多くの絵画で目にしてきたが、姉がみた「ドアの向こうに立っていた者」にぴたりと重なるイメージには、これまで出会うことがなかった。 だが、この「サルバトール・ムンディ」を観たとき、その姿がはっきりと結びついたのを覚えている。 ついに、姉の前に<あの人>が現れたのだ!

■ブルガリ・カレイドス、色彩・文化・技巧 ■時代のプリズム、日本で生まれた美術表現1989-2010

*下記□の2展を観る. ■国立新美術館,2025.9.17-12.8 □ブルガリ・カレイドス,色彩・文化・技巧 ■作家:ララ・ファヴァレット,森万里子,中山晃子ほか,会場設計:SANAA,フォルマファンタズマ ■「日本におけるブルガリの展覧会としては10年ぶり、過去最大のスケール・・」とあるように、質・量ともに申し分のない内容だった。 展示会コンセプトは「色彩革命」とのこと。 金(ゴールド)、白金(プラチナ)、そしてダイヤモンドを組み合わせた純粋色のジュエリーに、心が高鳴る。 そこに色石が加わると芸術性が一気に際立つ。 先ずは赤か黄か青、次に緑か紫か橙。 色彩が重なり合うことで暖色と寒色の対比が生まれ、より複雑な象徴性が立ち上がってくる。 目が騒ぎ、脳味噌がピクピクと刺激されるような感覚に包まれる。 デザインはシンプルながら、蛇(セルペンティ)のモチーフも登場する。 作品の多くはブルガリ・ヘリテージ・コレクション所蔵だがサウジアラビア王室や女優エリザベス・テーラーの名前も見受けられ、華やかな雰囲気が垣間見える。     「単色系からサファイア、ルビー、エメラルドを取り入れ、その後アメシスト、シトリン、ターコイズなどに広げていくアプローチはブルガリ・スタイルの特徴となり、色石の魔術師としての名声を確かなものにした」という解説にも納得。 この目でブルガリの色彩史を存分に堪能することができた。 *美術館、 https://www.nact.jp/exhibition_special/2025/bvlgari_kaleidos/ □時代のプリズム,日本で生まれた美術表現1989-2010 ■作家:森村泰昌,草間彌生,椿昇,村上隆,宮島達男,奈良美智,山城知佳子ほか ■登場する作家は50人と多いが、20年の歴史を扱うには少なく感じられる。 展示は「プロローグ」と「イントロダクション」で始まり、「新たな批評性」、「過去という亡霊」「自己と他者と」「コミュニティ持つ未来」と章が続いていく。 既知の作家や作品が多かったので会場を足早に廻ることにした。 今回は見逃していた映像作品を中心に鑑賞する。 「若き侍の肖像」(小泉明朗、2008年)、「pH」(ダムタイプ、1992年)、「OR、ダイジェスト版」(ダムタイプ、1998年)などを観る。 「仮面劇のためのプロジェクト<ヒ...

■山本理顯展、コミュニティーと建築 ■朝井閑右衛門が描いた街と人間

*下記□の2展を観る. ■横須賀美術館,2025.7.19-11.3 □山本理顯展,コミュニティーと建築 ■建築家・山本理顯(やまもとりけん)が設計した100作品が並ぶ大規模な展示会である。 普通に見て回るだけでも2時間以上かかってしまった。 「閾は出入りするものたちの限界を指し示す」。 作家の言葉が掲げられていた。 <閾>(しきい)とはパブリックとプライベートの境界を指し、社会との繫がりを生み出す」。 彼が提唱する境界概念らしい。 言葉の由来は敷居や鴨居にあると考えられる。 初期の作品には、独立させた室を<閾>という概念で内空間で繋げた一般住宅が多くみられる。 外壁の無い内空間は、偏西風が吹く東アジアでは酷かもしれないが、1970年代後期の邸宅群は境界が明確で、気に入った作品が多かった。 しかし1980年代に入ると独特な屋根をつけた小規模建築が増え、境界も曖昧になってくる。 デザイン的にはやや物足りなさを感じた。 屋根は象徴的な意味を持たせているのだろう。 1990年代は公共施設が目立ち始める。 「埼玉県立大学」や「はこだて未来大学」は内空間を活用し、個室を有機的につなげた構造がみられる。 ガラスの透過性を利用して空間の接続を多様化しており、密空間(プライベート)⇔内空間(コモン)⇔外空間(パブリック)の連携がよりスムーズに感じられた。 2000年代には「チューリヒ国際空港」など社会周辺との関係を意識した大規模施設が増えてくる。 しかし社会との連携といった目に見えない部分は、実際に現地に行ってみないと意見は難しい。 多くの作品に共通して言えることは、周辺コミュニティとの繫がりを重視している点である。 芸術性はやや控えめだが、他者との関係性が維持し易い建築と言える。 「住まいを変えれば、日本が変わる」という理念を体現する建築家の一人だろう。 山本理顯の全体像を知ることができて満足な展示だった。 ところで、美術館前の浦賀水道を大型船が列をなして通過していく風景が何とも素晴らしい! *美術館、 https://www.yokosuka-moa.jp/archive/exhibition/2025/20250719-939.html □朝井閑右衛門が描いた街と人間 ■朝井閑右衛門(あさいかんえもん)の油彩厚塗り絵画が数点並ぶ。 彼は戦後間もなく横須賀にアトリエを構え、横須...

■オークション、盗まれたエゴン・シーレ

■監督:パスカル・ボニゼール,出演:アレックス・リュッツ,レア・ドリュッケール,ノラ・アムザウィ他 ■配信(フランス,2023年作) ■フランス地方都市の労働者宅からナチスに略奪され行方不明となっていたエゴン・シーレ作「ひまわり」が見つかり美術界に衝撃が走る。 本作は競売人(オークショニア)アンドレ・マッソンを主人公にしたオークション業界を描いた話である。 しかし、美術系からやや距離がある。 絵画を所持していた労働者や主人公、その助手、彼らの家族関係に多くの時間が割かれているためだ。 略奪された絵画の処理、競売人たちの駆け引きは明確には描かれない。 裏取引の存在を助手から知らされる主人公の経験不足も頼りなく映る。 この映画はフランスの階級社会を描いているように感じられる。 生まれ故郷がどこか?という問が繰り返される点や、家族関係の描写が多いのもその傾向を裏付けている。 終幕に絵を見つけた労働者に拍手が送られる場面があるが、美術界が抱える階層意識への後ろめたさを払拭する意図があるのかもしれない。 フランス人なら作品の背後にある地理や歴史を意識しながら鑑賞するだろう。 しかしフランスから遠く離れた立場の者にとっては、すべてがオブラートに包まれており、深層に辿り着くことは難しい。 表面的な描写を眺めるしかない。 *映画com、 https://eiga.com/movie/102804/