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■ジャコメッティ最後の肖像 Final Portrait

■監督:スタンリー・トゥッチ,ジェフリー・ラッシュ,アーミー・ハマー他 ■(英国,2017年作品) ■ドキュメンタリーだと思っていたら違った。 話は・・、ジャコメッティから肖像のモデルになって欲しいと青年ジェイムズは頼まれる。 しかし制作は進まない・・・。 ジャコメッティがカンバスを前に人物を描いていくだけの単調なストーリーだが飽きさせない。 彼の演技が過剰なのはこの流れの為からだろう。 「描けないのは35年間胡麻化してきたからだ」「睡眠薬を使うのは自殺ではなく眠りだ」。 威勢もいい。 青年ジェイムズは内に秘めた存在感が出ていて面白い。 二人の信頼感もみえる。 芸術家ではセザンヌ、ピカソ、シャガールを話題にするがシーンの繋ぎ程度である。 但しセザンヌを持ち上げピカソを貶すところは彫刻家の面目を保っている。 フレンチ・ポップスが数曲入るが全体のリズムを壊している。 英語系の強い作品だからフランスに忖度したのかな? 終幕はせっせと店仕舞いするような感じでいただけない。 「 アルベルト・ジャコメッティ-本質を見つめる芸術家- 」をドラマ化したような作品だった。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/86691/ *「このブログを検索」語句は、 ジャコメッティ

■レオニー

■監督:松井久子,出演:エミリー・モーティマー,中村獅童,原田美枝子,竹下景子,柏原崇,勅使河原三郎,吉行和子ほか ■(日本+米国,2010年作品) ■先日の「 イサム・ノグチ展 」会場に彼の生い立ちが詳細に載っていた。 興味を持ったので早速このDVDを取り寄せました。 レオニー・ギルモアはイサム・ノグチの母の名前です。 1892年、レオニーのボルティモア学生時代から物語が始まる。 そして彼女はニューヨークでイサムの父になる野口米次郎(ヨネ)と出会い文筆業で成功し結婚。 ヨネは日本に帰り、レオニーは彼女の母の家カルフォルニアでイサムを生む。 1907年レオニーはイサムを連れて日本へ。 しかし二人は離婚。 1918年イサムは一人アメリカへ。 1920年彼女もサンフランシスコへ。 ・・。 松井久子の作品は初めてです。 登場する人物、衣装、街の風景、全てが整然としていて一つの美術作品を観ているようです。 俳優陣も豪華ですね。 20世紀初期の日本の余所行き姿が映し出される。 イサムの芸術面は取り上げられない。 学校に行かず自宅を建てる場面、そして医学から芸術に進路変更する場面で母からの芸術志向の影響を認めるくらいです。 むしろフロンティアであるレオニーを前面に出し当時の一人の女性の生き様を描いている。 しかしこの映画をみて「イサム・ノグチ」がイサム・ノグチになったことは確かです。 ちなみに妹アイリスはダンサーになりマーサ・グラハム舞踏団に入団している。 *映画comサイト、 https://eiga.com/movie/55599/ *「このブログを検索」語句は、 イサム・ノグチ

■イサム・ノグチ ー彫刻から身体・庭へー

■東京オペラシティアートギャラリー,2018.7.14-9.24 ■中身の濃い内容でした。 初めの章「身体との対話」の1930年前後のドローイングや彫刻は躍動感があって素晴らしい。 それから20年後の2章「日本との再会」はもはや日本のようで日本でないところが楽しい。 3章「空間の彫刻」で彼がこれだけのプレイグラウンドを考えていたとは「彫刻より空間に興味がある」ことの証です。 マーサ・グラハム「ヘロディアド」(1944年)が映されていたが彼女の物語の抽象化と振幅有る振付はイサム・ノグチの舞台美術に合います。 上演前の舞台をみて何でこんな彫刻が置いてあるのかと訝るのですが、ダンサーが踊り出すとナルホドと納得できるのです。 二人の共同作業が後々迄続いた理由が分かる。 そしてこの展示会を見る限り副題と逆の「身体・庭から彫刻へ」の流れを感じます。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh211/ ■うつろうかたち-寺田コレクションの抽象- ■難波田龍起の作品を中心とした展示です。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh212.php ■木村彩子 ■描かれている草花をみて以前出会ったことがある作品だと・・。 そう、思い出しました。 今年2月の府中美術館「 絵画の現在 」です。 *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh213.php

■巨匠たちのクレパス画展

■損保ジャパン日本興亜美術館,2018.7.14-9.9 ■クレパスが商品名だったの知ってた? 一般名はオイルパステル。 1925年に日本で作られたの。 徐々に品質改良がなされ現在に至っている。 当時の作品が持つ硬軟感は品質の差かもしれない。 作家115名もの作品を観るのは楽しい。 クレパスだと簡単率直に描けるからよ。 後片付けも楽だし・・。 芸大試験を油絵ではなく日本画で専攻した話が面白い。 理由は油絵は準備や後片付けが大変だから。 当時の日本画試験は水彩画だから楽なのよ。 話がズレたかしら? その画家の名もウッカリ忘れた! それと「神田川」の話もね。 「二十四色のクレパス買って・・」が商品名のためNHK紅白歌合戦に出場できなかったことを初めて知ったの。 クレパス論では小磯良平・宮本三郎・猪熊弦一郎の話が展示に深みを添えていた。 クレパスの開発や普及に務めた山本鼎・中村善策はご苦労さん。 ショップでクレパス製造工場の本も売っていたのは驚きね。 クレパスで描けば誰もが巨匠になれる! あなたも巨匠の仲間入りよ。 *館サイト、 http://www.sjnk-museum.org/program/5380.html

■モネ、それからの100年

■横浜美術館,2018.7.14-9.24 ■日本画に描かれている蓮や羊草からは水生植物としての独特な感覚を貰えます。 でもモネの睡蓮をみていると水に浮かんでいる植物なら何でもよい。 「・・表現したいのは、描くものと自分の間に横たわる<何か>」とモネが言っていることでも分かります。 夕日の描かれた作品が気に入りました。 「セーヌ河の日没」「チャリング・クロス橋」など数点ありましたね。 空間に染み込んでいく夕日の赤は何とも言えない感情が湧きおこる。 <何か>とは感情を呼び起こすもののようです。 モネへのオマージュとして今回は多くの作家作品が展示されています。 この中で水野勝規の映像作品が目に留まりました。 「photon」は水上の波を取り続けているのですが、ずっと見ているとある種の恍惚感が襲ってきます。 船旅で甲板から海上を長く見ているとこうなる。 モネに「税関吏の小屋、荒れた海」があります。 その波はリズミカルですが恍惚感はやってこない。 モネが言う<何か>はリズムとは違うものでしょう。 多分リズムは形だからです。 睡蓮に戻りますが鈴木利策の写真「水鏡」もいいですね。 地と空の融合です。 でもモネの<何か>とは方向が逆です。 モネの絵を観ていると自身の感情が微妙に共振して溶け込んでいくように思える。 作家たちのモネの解釈が多彩で驚きます。 「形なきものへの眼差し」の試行錯誤が楽しい混乱を生み出しています。 *館サイト、 https://yokohama.art.museum/exhibition/index/20180714-499.html

■小瀬村真美:幻画~像の表皮

■原美術館,2018.6.16-9.2 ■暑い中、御殿山を登るのは大変だ。 その延長で作品を前にしたので最初は面食らってしまった。 写真のようだ。 それも暑さとはほど遠い。 じっくりみると動いている・・! 解説を読むと結構手が込んでいるようだ。 絵画と写真と映像を混ぜ合わせたような作品と言ってよい。 「氏の肖像」(2004年)は目が時々動くので集中力がいる。 作品をみる安心感が遠ざかる。 落ち着いて観ることができないのだ。 「Pendulum」(2016年)のように動きのある映像だと安心できる。 でも何が起こるか予想がつかないのでやはり落ち着かない。 作者の予測不可能性、曖昧さとは違う低次元な鑑賞しかできなかった。 ところで先日DPM(ダイナミック・プロジェクション・マッピング)の実験をみたのだが人体と映像が完全一体化しているのを目にして驚いてしまった。 超高速度撮影や超高解像度映像(8K)などを含め映像進化は目覚ましい。 今回の作品は手作業での時空の圧縮化、断片化などをおこない極めて芸術的だが感動がやってこない。 映像的感動とはどういうものなのだろうか? まだ驚くことしか知らない。 映画的感動を得るのにも多くの積み重ねが必要だった。 作者は絵画としてみてくれと言っているように聞こえた。 御殿山を下り大崎駅に出る。 *美術手帖サイト、 https://bijutsutecho.com/exhibitions/1960

■AUDIO ARCHITECTURE:音のアーキテクチャ展

■デイレクター:中村勇吾,音楽:小山田圭吾,会場:片山正道,参加作者:大西慶景太,折笠良,梅田宏明,勅使川原一雅,UCNV,水尻自子,石川将也,辻川幸一郎 ■21_21DESIGN SIGHT,2018.6.29-10.14 ■小山田圭吾の新曲「AUDIO ARCHITECTURE」を9組の作家が映像表現にする展示よ。 シンプルで特徴の少ない曲に聴こえる。 このためか作者たちの悩んだ跡がみえる。 でも結局はサラッと受け止めたような作品が多い。 暑いし・・。 結果は十人十色ね、九人だけど。 先日、舞台で観た梅田宏明*1の「繊維状にある」はちょっとズレている感じがする。 気に入ったのは辻川幸一郎の「JIDO-RHYTHM」。 曲の雰囲気と顔の歪みの一体化が面白い。 音も映像も波長だからその関係式から逃げるには非連続な経験を持ち込まざるを得ない。 大西景太、梅田宏明、勅使川原一雅、石川将也は逃げずに、折笠良、UCNV,水尻自子、辻川幸一郎は逃げたとおもう。 どちらも方法として有りね。 *1、 「IntensionalParticle」 (梅田宏明振付,2018年) *館サイト、 http://www.2121designsight.jp/program/audio_architecture/

■ショーメ、時空を超える宝飾芸術の世界

■三菱一号館美術館,2018.6.28-9.17 ■創業者ニトの名が登場するが彼は金属職人のようです。 ではショーメとは後続の職人名なのか? 19世紀末の作品にジョゼフ・ショーメの名がある。 20世紀後半の作品にはショーメとしか書かれていない。 近年はデザイナーがころころ変わっているのですね。 ニトを含め初期作品には植物の繊細さが感じられます。 金細工もヒラヒラ感があっていいですね。 素材の厚みを隠している。 しかし権力者向けにみえます。 やはりナポレオンからの歴史があるからでしょう。 持つ人の格式を選ぶのかもしれない。 現在はLVMH傘下らしいがどういう位置づけなのでしょうか? 他店との比較をしたことがないので分かりません。 この美術館は部屋が小さいので今回のような小物展示が似合います。 展示方法や客誘導も混雑をしないように工夫をしていて良かった。 混んでいたのは第一室だけで以降はゆっくりと作品を堪能できました。 単眼鏡は必要でしょう。 *館サイト、 https://mimt.jp/exhibition/#chaumet

■ゴードン・マッタ=クラーク展  ■瀧口修造と彼が見つめた作家たち

■東京国立近代美術館,2018.6.19-9.17 □ゴードン・マッタ=クラーク展  ■ゴードン・マッタ=クラークという名は初めて聞く。 廃墟のビルを鋸で切ってみたり、ゴミ置場でトラックを壊したり、工場跡地の建物の壁を切り取るのを見ると彼はアーティストというよりパフォーマーに近い。 パフォーマンスは結果より過程だから映像作品が多いのだろう。 でも対象変化が予想でき音の無い映像は疲れる。 彼は1960年代饗宴の後始末をしているようだ。 もう一つ、チラシにもあったが戦後から続いた都市の後始末をしているようにもみえる。 でも彼が何を考えているのか、写真や作品の断片を見ただけではよく分からない。 映像では音声がしっかり入っている「フードの一日」が面白い。 マッタ=クラークの日常周辺や街の様子がわかる。 彼らが魚市場へ買い出しに行く場面があったが、スズキや蟹の見立てや店員とのやり取りが楽しい。 レストランに戻っての調理風景には目が釘付けになる。 こんな調理で人前に食事を出せるとは驚きだ。 でも開店後の客の様子をみると皆満足そうに食べている。 トウモロコシが1本ズトーンと皿に置いてあるのには笑ってしまった。 スズキや蟹がよく見えなかったのは残念。 客同士のクダラナイ話もまた楽しい。 人種・服装・髪型・・、1970年頃のニューヨーク下町へちょっと行ってきた感じだ。 マッタ=クラークは当時の街を歩けば出会えそうな人物にみえてきた。 資本資産の交換期のため大きな材料が散らばっていたから活動し易かったに違いない。 当時のマッタリした都市気分も上手く利用している。 不要なモノを扱う面白さとクダラナさの両方がでている。 マッタリ=クラークである。 *館サイト、 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/gmc/ □瀧口修造と彼が見つめた作家たち ■瀧口修造「デカルコマニー」の作品群と彼が支援した若手作家や関連作家の作品が展示されている。 瀧口修造と若手作家のダイナミックな関係は見えないが作家の多さに驚く。 書斎などの写真が面白かった。 本人や妻の表情・服装、家具、壁の絵や棚の本をみていると彼の全体が見えて来る。 *館サイト、 http://www.momat.go.jp/am/exhibition/takiguchi2018/ *「このフ