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■さわひらきー潜像の語り手ー

■感想は、「 さわひらきー潜像の語り手ー 」

■民藝 Another Kind of Art展

■ディレクター:深澤直人 ■2121デザインサイト,2018.11.2-2019.2.24 ■ディレクターは日本民藝館館長でもある深澤直人。 配布資料には民藝館初代館長柳宗悦の案内文が載っているの。 一息では読めない3千文字はある。 「民藝(=民衆的工藝)は生活に即した実用品を指すが、・・それらこそ驚くべき美を持っている。 ・・美と生活は深い血縁で結ばれている」。 日々使う器物の美が生活を潤すのね。 机に5個前後の作品を並べて会場に20机ほど散らした構成になっている。 「今 ミヨ イツ 見ルモ」。 いつも「今初めて見る想いで見ること」で美しいものが見えるようになる。 そして「打テヤ モロ手ヲ」。 両手を打って美を喜べば生活は輝く、たとえ一枚の布一個の壺でも。 柳宗悦の二つの言葉を実践した深澤直人の文章が全ての机に書いてある。 生活の中で使うことを想像しながらみていくと喜びがやってくる。 うん、工芸の力ね。 映像は2点。 一つは日本各地の竹細工・染料・陶器など工芸品作成現場と関係者のインタビュー。 もう一つはマーティ・グロス「日用品をつくる1889-1961」の記録映像。 両方観れば作品がずっと近くなる。 「明日への生活」を民藝が豊かにすることは確かよ。 *美術館、 http://www.2121designsight.jp/program/mingei/

■東山魁夷展、生涯をたどる美しき道

■新国立美術館,2018.10.24-12.3 ■東山魁夷をまとめてみるのは久しぶりだ。 初めての作品もある。 彼の絵は独特な静かさがある。 夢を見ているのようにも思える。 これだけの作品を並べると装飾性ある構図はまだしも写実に近づくほど清涼感を越えた冷々な湿気が押し寄せてくる。 唐招提寺壁画「涛声」がそうだ。 「黄山暁雲」「桂林月宵」も見応えがあるが「充実した無の世界」とはまた違った世界にみえる。 それは人間のいない自然がすぐ近くに迫っているような寥々たる世界だ。 「揚州薫風」も不気味一歩手前のところで踏みとどまっている。 作者はこの湿気から逃げられない。 1940年代、例えば「残照」にはまだ自然の生気が感じられたのだが・・。 生気があるのはそこに人間が確かにいるからである。 南へ旅をして暖かい湿気を作品にしたらまた違っただろう。 *生誕110年展 *館サイト、 http://www.nact.jp/exhibition_special/2018/kaii2018/

■深井隆展、7つの物語  ■深井隆展、在ることについて  ■刻まれた時間もの語る存在

■東京芸術大学大学美術館,2018.11.1-11 ■高島屋日本橋店,2018.10.31-11.19 ■東京芸術大学大学美術館,2018.11.1-11 (以上展示名順) ■深井隆芸大退任記念3展です。 木彫の可能性を追求してきた作品群が多く3階の「7つの物語」は見事です。 粗削りが残っている椅子に金色の翼、エジプシャンブルーに塗られた馬など一つの作品が複数からできていて空間に散らばっています。 小さな作品では大理石の金箔窓の家、動物のブロンズ像などなど・・。 翼をみるとキリスト教の天使を思い浮かべてしまいますね。 でも天使像のいない翼のため人間味が感じられない。 形而上学的にみえる。 静寂な空間にどことなく意味が漂います。 「在ることについて」が高島屋で開催されていることを知り日本橋へ向かいました。 ここでは小さな作品が並べられていて値札もついている。 1作品20万円代が多い。 販売状況をみるとモノタイプが比率的に売れていますね。 木彫だと購入に尻込みするのでしょう。 大理石作品でも土台が結構大きい。 モノタイプなら絵画のように扱えて設置や保管が容易だからです。 再び芸大美術館の話に戻ります。 「刻まれた時間もの語る存在」は芸大彫刻科の学生や出身作家の作品です。 ビデオ作品から物理学実験設備のような作品まである。 今流行りの言葉で言うと百花繚乱ですね。 「彫刻とは、木や石に永遠を刻もうとする行為・・」と深井は言っています。 現代彫刻は素材から湧き出てくる永遠と表面を流れる物語の永遠のせめぎあいにみえます。 ■芸大コレクション展2018 ■東京芸術大学大学美術館,2018.10.2-11 ■ついでに寄りました。 知っている作品が多い。 会場入口の久保克彦「図案対象」(1942年)の5枚組が目立ちます。 柴田是真「千種之間天井綴織下図」の修復報告が会場を占めています。 *館サイト、 https://www.geidai.ac.jp/museum/exhibit/2018/fukai/fukai_ja.htm * InternetMuseumサイト、 https://www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=92213

■カール・ラーション、スウェーデンの暮らしを芸術に変えた画家

■損保ジャパン日本興亜美術館,2018.9.22-12.24 ■カールの作品はどれも薄い感じがする。 水彩画というわけではないが家族関係の濃密さは見えない。 日常生活がどういうものか伝わってこない。 例えば夕食のテーブルはまるでレストランのようだ。 室内も衣装も一昔前のデパートの広告である。 実際イケヤの居間もあった。 「産業革命による住職分離は私的な領域としての家庭を生み出した・・」。 そしてジョン・ラスキンの言う「美・秩序・安らぎを与える家庭」の流れを無条件に踏襲し形にしている。 カールにとって挿絵の仕事はこの流れから逃げる無意識の手段だったのかもしれない。 挿絵には狭い目的と広い世界がある。 その後、家族の肖像を版画で描いたのは彼が挿絵で冷静になったからだろう。 「エッチングは私的主題を表すのに適している」。 線は文字のように確かな記録にもなる。 妻カーリン・ラーションの存在が大きい。 カールとカーリンの初期油彩画「水差しのある静物」と「マルムストローム先生のアトリエ」はどこか似ている。 若い二人は芸術で意気投合したはずだ。 カーリンの腕前は確かだ。 しかしカールはそれを嫌った。 そして彼女は民芸に向かう。 「産業革命は粗悪な工業製品を作り出した」。 これに対抗するための美術工芸運動に彼女は出会った? リッラ・ヒュットネースの邸宅は彼女の時代嗜好が詰まっている。 家は彼女の両親から譲り受けたらしい。 カールへの影響はどれも大きい。 彼の描く家庭は民芸になってしまった。 民芸は家族関係に深入りできないが生活の遊びによく似合う。 カールの絵の楽しさは民芸を昇華したような遊ぶ子供達にある。   *日本・スウェーデン外交関係樹立150周年記念 *館サイト、 https://www.sjnk-museum.org/program/5469.html

■田根剛、未来の記憶 Digging&Building  ■異国で描く  ■中村太一

■東京オペラシティアートギャラリー,2018.10.19-12.24 □田根剛,未来の記憶 Digging&Building ■ギャラリー間では「考古学的リサーチの方法論を展開」したけど*1、ここでは「(時間と場所の)記憶を発掘し・掘り下げ・飛躍させる手法を体感的に展示する」と書いてある。 これで模型が大きくなり見応えのある映像が並べられているのね。 先ずは「エストニア国立博物館」の映像が流れていたが吹雪の中の壁面のガラスをみると寒そう! 規模があるけど暖房は効いているかしら? 「古墳スタジアム」は本物の長閑さがある。 スタジアム機能以外はそれで良いかもね。 気に入ったのは「A House for Oiso」と「Todoroki House in Valley」の住宅2点かな。 前者は「・・縄文の竪穴、弥生の高床、中世の掘立小屋、近世の町屋、昭和の邸宅を一つの家にして・・」とギャラリー間には書いてあったけど完成映像をみるとナルホド! 後者の等々力は緑の中の邸宅で1階はガラス、2階は木材(?)の違った組み合わせが新鮮よ。 住宅など小さな作品は組み合わせとしての考古学的アプローチが調和を保っている。 大規模作品はあらゆる記憶が一点に集約されてしまうように見える。 実物をみないと何とも言えないけどね。 会場終わりに全作品が年表形式で表示されているの。 なかでも金森穣演出の「 干渉する次元 」など5作品の舞台美術を担当したのは見過ごしていた。 美術展では「 ポンピドゥー・センター傑作展 」「 フランク・ゲーリー展 」「 新井淳一の布 」など多くの会場構成にも係わっている。 これらは建築と違い脇役として一歩下がっているの。 一見では田根剛と分からないけど言われてみると(建築の)延長としての納得感が持てる。 *1、「 田根剛,未来の記憶 Search&Research 」(ギャラリー間,2018年) *館サイト、 https://www.operacity.jp/ag/exh214/ □異国で描くー収蔵品展,寺田コレクションよりー ■「竜宮」(1996年)にまた出会えて嬉しいわ。 これを含めて西野陽一の作品が7点もある。 鶴を描いた「コンチェルト」(2017年)を除いて他は「竜宮」の延長線に位置している。 この館でよくみる相笠昌義では「緑