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■Don't think.Feel. ■W.ユージン・スミスとニューヨーク、ロフトの時代 ■養老孟子と小檜山賢二の虫展

*下記□の3展を観る. ■東京都写真美術館,2026.3.17-9.23 □Don't think.Feel. ■作家:田村栄,北井一夫,影山光洋,川内倫子,小林のりお他 ■タイトル「考えるな、感じろ!」は映画「燃えよドラゴン」でブルース・リーが放った台詞だという。 しかし、写真の前に立つと、私はどうしても<感じる>より先に<読んで>しまう。 過去の記憶が、写真の表面から立ち上がってくるのだ。 田村栄「多摩川の鳥」の前では、川辺で育った子ども時代がよみがえる。 川原で雲雀が急降下した場所を探し当て巣を見つけたこと、水中で見たヤマメの鱗の煌めきが美しかったことを。 北井一夫「こたつ」では、炬燵を囲んだ近しい人々の顔が浮かび、影山光洋「家族の肖像」の前では、両親の時代が蘇る。 写真の前で「考える」ことは本来少ない。 むしろ「読むな、感じろ!」と言いたくなる。 しかし、感じるだけでは写真の意味が半減してしまう気もする。 写真は、記憶と感覚のあいだで揺れ動く媒介なのだ。 *美術館、 https://topmuseum.jp/exhibition/5415/ □W.ユージン・スミスとニューヨーク,ロフトの時代 ■作家:三木淳,ウィリアム・ユージン・スミス ■ユージン・スミスは美術館でしばしば出会う作家だが、「ロフト時代」に焦点を当てた展示は珍しい。 今回はその時期を軸に、彼の全体像を見渡せる構成となっていた。 第1章「偉大な都市」では「ピッツバーグ」から30点を抜粋。 続く第2章が「ロフトの時代」で、当時の空気を再現した展示空間にはジャズの音が流れ、写真と音が混ざり合う。 第3章「Let Truth Be the Prejudice」は、1971年の回顧展をほぼ再現したもので、80点余りが展示されていた。 終章は「水俣、報道と芸術の融合」。 そして1階ホールでは映画「MINAMATA,ミナマタ」(2020年)と「ジャズ・ロフト」(2015年)が上映され、写真家の軌跡を多面的に辿ることができる。 「客観なんてない、主観しかない」。 彼の言葉は重い。 「写真は平気で嘘をつく」。 だからこそ、ジャーナリストとしての責任の深さが胸に迫る。 *美術館、 https://topmuseum.jp/exhibition/5095/ □養老孟子と小檜山賢二の虫展 ■作家:養老孟子...

■ロン・ミュエク

■作家:ロン・ミュエク ■森美術館,2026.4.29-9.23 ■入館して知ったのだが、ロン・ミュエクはプラスチック素材などを成型加工して作品を創り出す、いわゆる ミクストメディア を得意とする作家らしい。 人物や動物を驚くほど正確かつ精密に仕上げており、まずその技術力に目を奪われる。 なかでも、拡大された人物像は圧倒的な迫力を放つ。 近づくほどに生々しさが増し、こちらとの距離が揺らぎ始める。 親密さが立ち上がる一方で、どこか遠ざけたい気分にもなる。 まるで生身の他者と向き合うときのように、心理的距離が一定に保てない。 しかし、その身体的リアリティとは裏腹に、作品から芸術的な感動が湧き上がってこない。 骸骨の墓場である 「マス」、男の顔を象った「マスク」、暗闇に沈む「ダーク・プレイス」も同様で、どこかテーマパークで<面白いものを見た>という感覚に近い。 作品ごとの解説を読むと、そのテーマパーク的な驚きから、観客を美術館的な感動へと連れ戻そうとしているように思えた。 しかし近年は、美術館とテーマパークの境界そのものが低くなっているのではないか。 非日常体験を提供するという点では両者はすでに地続きであり、その両方を見据えて制作しているのが、まさにロン・ミュエクなのかもしれない。 *美術館、 https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/ronmueck/index.html

■アンドリュー・ワイエス展

■作家:アンドリュー・ワイエス,所蔵:丸沼芸術の森ほか ■東京都美術館,2026.4.28-7.5 ■1974年、国立近代美術館で開催された「アンドリュー・ワイエス展」の衝撃はいまも忘れがたい。 その記憶があるからこそ、東京都美術館での今回の展覧会にも胸が高鳴った。 鑑賞を進めるうちに、今回はとりわけ第3章「オルソン・ハウス」に焦点を当てた構成であることが分かってくる。 「丸沼芸術の森」所蔵の水彩画や鉛筆画がずらりと並び、さらにオルソン・ハウスの建築図面まで展示されているのが興味深い。 会場には「境界の深淵に迫る」というテーマが掲げられていた。 ワイエスは屋根や壁、ドアや窓といった建物の境界を丹念に描き込み、そこに人の気配を重ねていく。 水彩・テンペラ・ドライブラッシュ水彩を自在に操る筆致によって、建物そのものがワイエス的な<境界>として静かに立ち上がってくる。 ハウスに暮らした姉弟の姿も描かれているが、作品数は多くない。 それでも人物を描かずとも、空間には濃密な気配が満ちている。 なぜワイエスの境界は「深淵」なのか。 そこには<喪>の気配が漂っているからだ。 ここでいう喪とは、すでに訪れた死ではなく、姉弟がこれから迎えるであろう「人間の定めとしての死」の影である。 その予兆が画面に沈殿し、ワイエス作品特有の衝撃力を生み出している。 テンペラによる人物画は「クリスティーナ・オルソン」(1947年)の一枚のみで、やや物足りなさも残った。 ハウスから離れた作品としては「自画像」(1945年)など数点が展示されていた。 久しぶりにワイエスの世界に浸ることができたが、焦点を絞った展示構成であったため、感動もまた限定的なものとなった。 単眼鏡は持っていた方がよい。 *東京都美術館開館100周年記念 *美術館、 https://www.tobikan.jp/exhibition/2026_wyeth.html

■チュルリョーニス展、内なる星図

■作家:ミカロユス・コンスタンティナス・チュルリョーニス,所蔵:国立M.K.チュルリョーニス美術館 ■国立西洋美術館,2026.3.28-6.14 ■会場で上映されていたチュルリョーニスの紹介映像を眺めながら、リトアニアと聞いて真っ先に思い浮かぶのが映画作家ジョナス・メカスしかいないことに気づく。 1970年代の作品はいまも記憶に残っているが、それほどにリトアニアは遠い国として私の中にあった。 チュルリョーニスという名は今回が初めてで、しかも彼は画家であると同時に音楽家でもあったという。 作品のタイトルに音楽用語が付されているのもそのためだろう。 そういえば会場にも彼の音楽が流れていた。 今こうして美術館のウェブに掲載されていた彼の作曲集を聴きながら、この文章を書いている。 特に心に残ったのは「星のソナタ」(1908年)と「おとぎ話」(1907年)の数枚である。 そして「祭壇」(1909年)の前では、ふと画家・有元利夫の名が頭をよぎった。 チュルリョーニスと同じく、絵画の背後に音楽的な気配を感じさせる作家である。 絵画と音楽の関係は興味深い。 個々の作品というより、画家が持つ固有の画風から音楽の形や質が立ち上がってくるからだ。 作家ごとに<画風=音風景>が成立する。 この式こそが、本展のタイトルにある「内なる星図」を指しているのかもしれない。 さらに、ロシア帝国支配下のリトアニアに根差した個性が、絵画にも音楽にも確かに感じられる。 展示の最後に置かれていた「レックス(王)」(1909年)は、その歴史的背景が最も強く押し出された作品だった。 彼の得意とする鳥瞰的で豊かな風景とは異なり、王の暗い姿が重く沈む。 政治状況が彼の精神を追い詰めた一因であったとしても不思議ではない。 ともあれ、今日は遠いと思っていたリトアニアに一歩近づけたようで、彼の画風が持つような静かな喜びが残った。 *美術館、 https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2026ciurlionis.html

■森英恵、ヴァイタル・タイプ

■作家:森英恵,奈良原一高,田中一光,横尾忠則,佐藤しのぶ,小津安二郎ほか ■国立新美術館,2026.4.15-7.6 ■世界を相手に活躍してきた森英恵という存在の「謎」が一つ解けた気がした。 若い頃に手がけた映画衣装の仕事を通じ、監督や俳優との関わりの中で、社会の仕組みや人間関係の表裏を徹底的に叩き込まれたのだろう。 そこで培われた経験が、もともとのヴァイタル・タイプの気質に磨きをかけ、〈マダム・バタフライ〉の悲劇性から抜け出した<モンシロチョウ>として、世界へ羽ばたく原動力になったのだと感じた。 さらに、彼女が世界を相手にできた理由の二つ目も見えてくる。 ファッションメディアへの積極的な進出である。 そこには芸術家とのコラボレーションも含まれる。 田中一光や横尾忠則の作品はこれまで数多く見てきたが、森英恵の名と結びつけて考えたことはなかった。 遡れば、小津安二郎から受けた影響もその系譜にある。 そういえば、岡田茉莉子の衣装に感じていた「小津的だが何かが違う」という印象が、いま森英恵へとつながっていく驚きがある。 つい先ほど観てきた「 アントニー・ガウディ 」では、「すべての芸術は建築に通じる」と語られていた。 しかし森英恵のファッションは、必ずしもその枠に収まらない。 おそらく〈衣・食・住〉という人間生活の三要素が、互いに対等であるからだろう。 今日はさらに「 スープはいのち 」も観たので、〈衣・食・住〉の三つの美術展が偶然にも揃ったことになる。 思いがけない重なりによって、楽しさが三倍に膨らんだ一日だった。 *美術館、 https://www.nact.jp/exhibition_special/2026/hanaemori/

■スープはいのち ■ガウディ、未来をひらく窓

*下記□の2展示を観る. ■2121デザインサイト,2026.3.27-8.9 □スープはいのち ■ディレクター:遠山夏未 ■馴染みのスープといえば、やはり味噌汁だろう。 ほぼ毎日口にし、具をたっぷり入れるので「飲む」というより「食べる」に近い。 会場では、旅先で出会った多様なスープが紹介され、世界各地の名物スープの写真も並ぶ。 米から作る「おかゆ」のレシピらしき映像も流れていた。 水で煮れば、あらゆる食材はスープになる。 だからこそ、「スープは包む、いのちを満たす、はじまりの衣食住」というサブタイトルは、一見すると焦点が定まりにくい。 しかし、スープが生きるための基本であり、誰にとっても身近な<はじまり>の食であることを思えば、その曖昧さはむしろ必然なのかもしれない。 ディレクターが語るように、私たちは生まれる前から「羊水」というスープに包まれていた。 展示は、その原初的な感覚を静かに呼び覚ましていたように思う。 *美術館、 https://www.2121designsight.jp/program/soup/ □ガウディ,未来をひらく窓 ■主催:YKK AP株式会社 ■窓メーカーのYKK APが、ガウディ没後100年を記念して「建築家アントニ・ガウディの創造的で革新的な窓を多角的に探究する」プロジェクトを立ち上げた。 その名称が「ガウディ:未来をひらく窓」で、バルセロナのパラウ・グエル館で展示が予定されているという。 今回の展示は、そのサテライト展として2121デザインサイトで開催されている。 ガウディ建築の窓やドアに焦点を当てた展示は、改めてその造形の豊かさを感じさせる。 多くは<前後に動く>構造を持ち、曲線や立体的な装飾が空間に独特のリズムを与えている。 ガウディの建築は、時を経るほど魅力が増していくように思えるのが不思議だ。 同時に、日本建築の板戸・襖・障子といった<左右に動く>構造が対照的でありながら新鮮に感じられた。 異なる文化が生み出した開閉の仕組みを比較することで、窓という存在が単なる機能ではなく、生活や思想を映し出す装置であることに気づかされる展示だった。 *美術館、 https://www.2121designsight.jp/gallery3/gaudi_window/ *YKK AP、 https://www.ykkapglo...

■拡大するジュルレアリスム 日常を変える、世界を変える。 ■幻想の景色と不思議ないきものたち ■大上巧真 OueTakuma

*以下□の3展示を観る. ■東京オペラシティーアートギャラリー,2026.4.16-6.24 □拡大するシュルレアリスム 日常を変える,世界を変える ■作家:マルセル・デュシャン,マン・レイ,フランシス・ピカビア,サルバドール・ダリ,アンドレ・ブルトン他 ■日本各地の美術館から作品を集めた展示会である。 過去に観た作品も多く、新鮮味という点ではやや欠けるものの、シュルレアリスム入門としての性格が強く感じられた。 第一章「オブジェ」の解説には、シュルレアリスムの目指す方向性が示されていた。 そこでは「客観と超現実の関係」が語られ、主体の意識を客体へと移し、客体そのものが立ち現れる瞬間を待つという態度が強調されている。 客体が超現実的に変容していく過程を作品化する。 つまり、シュルレアリスムとは幻想や夢を初めから語るのではなく、客観を徹底して扱うことで超現実へ到達しようとする運動なのだ。 展示はその後、「写真」「絵画」「広告」「ファッション」「インテリア」へと続いていく。 二次元から三次元へと領域が広がり、客体の“本丸”へ向かっていくようにも見えた。 今日は第一章の解説に沿って作品を鑑賞したが、これは作家の制作過程を追体験する行為も含まれるので、なかなかに疲れる作業でもあった。 それでも、久しぶりのシュルレアリスム展を十分に楽しむことができた。 *美術館、 https://www.operacity.jp/ag/exh297/ □幻想の景色と不思議ないきものたち,収蔵品展086 寺田コレクションより ■作家:落田洋子,川口起美雄,望月通陽,池田龍雄ほか ■1階の企画展を観終え、2階の収蔵品展へ向かった。 どちらも幻想や夢を主題とした作品が多いが、2階に並ぶ作品は1階とは対照的に、作家の主観から直接生まれた世界が強く前面に出ている。 これは日本独自の流れなのか、それとも時代的な傾向なのか? おそらく前者だろう。 チラシには古今和歌集の一首が引用されていた。 「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ」。 夢と現実が主客分離しないまま境界で溶け合う、この感覚こそ日本的な幻想の源泉なのだと感じた。 企画展と収蔵品展を続けて観ることで、客観的に構成された幻想と、主観から立ち上がる幻想という対照が際立ち、その組み合わせが特に興味深かった。 *美...

■ウジェーヌ・ブーダン展 瞬間の美学、光の探求

■作家:ウジェーヌ・ブーダン,エミール・ヴェルニエ,ロイス・デルテイユ ■SOMPO美術館,2026.4.11-6.21 ■日本では30年ぶりとなるブーダンの回顧展だという。 印象派展では脇役として扱われがちなブーダンだが、今回は100点もの作品をまとめて鑑賞できる貴重な機会となった。 ブーダンの絵画は、空と海が画面の大半を占める。 まさにコローが評した「空の王者」という言葉が腑に落ちる。 派手さはないが、眺めているうちに心が静かにほどけていくような癒しがある。 彼の描く雲や波は、自然の変化を忠実に写し取っているようだ。 今回の展示で知ったのだが、船乗りの父の影響もあり、ブーダンは「天候を読む漁師の目」を持っていたという。 だからこそ、印象派の画家たちのように色彩に溶け込ませるのではなく、雲や波が現れては消えていく、その一瞬の相貌を確かに捉えている。 ボードレールが述べた「気象学的な美しさ」という表現が、これほど似合う画家も珍しい。 海景から陸景へ移ると、画風は一気にバルビゾン派へ近づく。 トロワイヨンの影響が強いと解説されていたが、そこにコロー風の柔らかなタッチも感じられる。 後半になると、ヴェネツィアの建物の壁には雲の質感が塗り込められ、牛の量感には雲を固めたような重さが宿っていく。 湖や池の水面は不思議なほど静まり返っている。 陸では、彼の“天候を読む力”が対象物に付着しているかのようだが、モノとして力が立ち上がってこない。 やはりブーダンは、何もないようでいて無限の変化が潜む空と海にこそ帰るべき画家なのだと、改めて感じさせられた。 *美術館、 https://www.sompo-museum.org/exhibitions/#now