■杉本博司、絶滅写真
■作家:杉本博司
■東京近代美術館,2026.6.16-9.13
■杉本博司の「放電場」を凝視していると、無機から有機が立ち上がる瞬間が確かに感得される。 「海景」では静止した水平線近くの波がわずかに動き、そこに生命の痕跡が滲み出る。 「劇場」の白く輝く闇には、観客の不在にもかかわらずヒトの気配が沈殿している。 杉本作品に特有の「有機が立ち上がる瞬間」は、今回の展示でも確かに息づいていた。
しかし、会場ではほぼB0判?で統一された大判プリントが並び、写真を「凝視して独占する」ためのサイズではない。 むしろ絵画的なスケールで鑑賞することを求められているように感じた。 そのため、銀塩写真が本来持つ緊張感やリアリティが薄まり、あの独特の<気配>が迫ってこない。 杉本作品の核心が遠のいた印象を受けた。
さらにキャプションには作者自身の短歌(川柳に近い調子のものもある)が添えられている。 興味深い言葉ではあるが、言語が介在することで作品との距離が一段階遠くなる。 「けだもののみちきわめきていまのひと、ひとと言えどもいまもけだもの」「立ってみた腰は痛いし肩こるが、もろてをあげてやったぜ万歳」。 これらの言葉はユーモアと批評性を帯びているものの、写真の沈黙を破り、視線を作品から逸らしてしまう。
「絶滅写真」は、銀塩写真という技術の終焉と、自身の作家活動の終幕を見据えて浮上したタイトルだという。 杉本博司が長年追い続けてきた「無機から有機への気配」は、銀塩という物質性を伴う技法によってこそ成立する。 今回の展示はその終焉を示すと同時に、銀塩写真が持つ不可逆の魅力を改めて考えさせる場となった。